半村 良 産霊山秘録 上の巻 [#ここから2字下げ] ◆日ノ民  古へ山山ヘメクリテニ仕フル人アリ。  タタ日トノミ稱フ。高皇靈ノ裔ニア  リ。妣ナクシテ畸人多ク生レ、靈ノ地  ヲ究ムト言フ。 (統拾遺) [#ここで字下げ終わり] 目 次  神変《しんぺん》ヒ一族  真説・本能寺  妖異《ようい》関ケ原  神《しん》 州《しゆう》 畸《き》 人《じん》 境《きよう》  神変《しんぺん》ヒ一族     一  春の終りの生暖かい風が、京の町へ向って吹いて行く。  ここは洛南《らくなん》、醍醐三宝院《だいごさんぼういん》の一角。茶席がしつらえてあり、客が三人いた。亭主はもちろん門跡《もんぜき》の義演僧正《ぎえんそうじよう》で、三人の客はいずれも商人であった。小窓の外を横切る木の枝に若芽が萌《も》えだしていて、屋内に鮮やかな萌黄色《もえぎいろ》の影がさしている。  その時義演僧正はいわくあり気な表情で、じっと三人の客を観察しているようであった。客たちはいま、この部屋に入って来た若い美僧の手もとを熱心に見つめている。  婦《おんな》のように唇《くちびる》の赤い僧は、運んで来た新しい一幅《いつぷく》を正面の床に掛けおえると、恭《うやうや》しく一礼して立ち去った。  呀《あ》ッ、と息をのむ気配が三人の客の間に起った。奈良《なら》の蜂屋紹佐《はちやしようさ》、松屋久政《まつやひさまさ》、堺《さかい》の天王寺屋こと今井宗久《いまいそうきゆう》。  三人の客はいずれも当代一流の茶人であり、同時に富商でもあった。 「ご門跡さま、これは……」  若芽の緑が映《は》えたばかりではない。三人とも極度の昂奮《こうふん》に顔色を蒼《あお》くしている。 「か、開山墨跡《かいざんぼくせき》」  ややあって、松屋久政がかすれ声で言う。 「さよう」  僧正は何やら愉《たの》しそうに微笑していた。 「ご無礼をつかまつります」  たまりかねたように蜂屋紹佐が座をすべり、凄《すさ》まじい筆勢を示す床の掛軸へにじり寄った。 「まさしくこれは圜悟克勤《えんごこくごん》の真跡《しんせき》」 「さすがにお目が高い」  僧正は膝《ひざ》に手を置いて、開山墨跡に見とれている天王寺屋の顔へ、ちらりと視線を走らせながら言った。  圜悟克勤ははるか宋《そう》の時代の禅僧である。 「まさか二つとあろうとは……のう宗久どの」  蜂屋紹佐は天王寺屋をふり返って言った。  松屋久政はこの時代の茶人の長老の一人である。彼は既に何十回となく圜悟の墨跡に接してよく知っているが、一世代下に当る蜂屋紹佐と天王寺屋宗久は、二度か三度しか見ていない。  圜悟は禅録「碧巌録《へきがんろく》」の大成者として名高いが、茶の湯と関係の深い大徳寺派直系の祖として、茶人の間では神に等しく扱われていた。したがって圜悟の墨跡はすこぶる貴重であり、茶道の開祖|村田珠光《むらたじゆこう》が一休禅師より譲り受け、以来開山墨跡と称して神秘的な宝とされているのだ。 「どういう機縁でこれがご門跡さまのお手もとに……」  松屋久政はようやく落着きをとり戻して訊《たず》ねた。その時にはこの老い枯れた茶人の瞳にも、烈しい所有欲が火のように燃えさかっていた。すると蜂屋紹佐が突然両手をつき、 「手前におゆずりくだされ。お願いでございます」  と叫ぶように言った。 「なんの、私めにこそ」  松屋久政が間髪《かんはつ》を入れず、紹佐の声をおしのけるように言った。 「さて……」  僧正は相変らず愉《たの》しむような微笑を浮べたまま客を眺《なが》めていた。 「ご両人とも……」  天王寺屋がはじめて口をひらいた。「ご門跡さまが何ゆえ今になってこの稀代《きたい》の墨跡を床におかけ遊ばしたか、そこの所をよく考えてみようではございませぬか」 「今になってとはどういうことじゃ」  松屋久政が問い返した。 「ご門跡さまから茶のおまねきをおうけしたとき、手前は千家《せんけ》もまいるものとばかり思っておりました。しかしこの席に千家の姿はありません。なぜでしょうか」  天王寺屋は挑《いど》むように僧正の瞳を見据《みす》えながら言う。  松星久政はそう言われて小膝を叩《たた》いた。 「この世にただ一人、開山墨跡を蔵しておるのは千利休《せんのりきゆう》じゃ」 「さよう。ご門跡さまは圜悟の墨跡を、手前ども三人の内の誰《だれ》かにおゆずりくださろうという思《おぼ》し召《め》しらしい。……でございましょうな」 「さすがは今井宗久どの。ようお見とおしのことじゃ。ただ、この墨跡は拙僧《せつそう》のものではござらぬ。さる高貴のお方のお手もとより出されたものゆえ、拙僧としても人の好ききらいや情にほだされるわけにはまいらんでのう」  僧正が言うと、それまで恬淡《てんたん》として茶の境地に浸《ひた》っていた三人は、いともあっさりと茶人の貌《かお》をすててしまった。一瞬の商機に命を賭《か》ける戦国商人のたくましさを露呈し、ものさびた茶席の風が、あらあらしい熱気を帯びはじめたのである。 「まず銭《ぜに》五百貫」  蜂屋紹佐が最初の値をつけた。 「五年ほど前、千利休は開山墨跡を銭一千貫文で手にしたそうだがのう」  僧正はよそごとのように言った。 「それは天下にただひとつということの上でございます。二つ目は値がさがりましょう」 「七百貫文。茶の湯を好む大名小名が日ましに多くなっておりますれば……」  松屋久政が値をあげた。 「いや、千家が一千貫で購《あがな》ったからには、一千貫が相場でしょう」  天王寺屋が平然と言う。 「い、一千一百貫」  紹佐は蒼白《そうはく》になっていた。米|一石《いつこく》銭一貫文の時代である。茶席を飾る墨跡が米千石の価《あたい》を超えるとなると、いかに富商であっても顔色が変ろうというものだ。 「一千三百貫」  天王寺屋はすぐ値をあらためた。 「い、一千五百……いかな儂《わし》でもこれ以上は出せん」  松屋久政が叫んだ。 「一千六百貫」  と紹佐。 「一千七百貫」  天王寺屋は冷酷な表情で言った。しかし膝の上に置いたこぶしの内側は、じっとりと汗ばんでいるらしい。 「いま一服、いかがでござろうかな」  僧正はそう言って釜《かま》のふたに手を伸ばした。     二  陽ざしが雲にうすれ、少し温度がさがって、夕風に似た微風が、庭の樹々にしのびやかな音をさせている。商人たちをかえした義演僧正は、私室にとおしたもう一人の客に対していた。 「二千貫文とはかたじけない」  軽く頭をさげた客は公家《くげ》である。名は山科言継《やましなときつぐ》。でっぷりとした大柄な人物で、歳は六十がらみ。口許《くちもと》にきついものを漂《ただよ》わす以外は、闊達《かつたつ》でどこやらのほほんとした印象さえ受けとれる。特徴は赤く酒焼けのした鼻で、名うての酒好きであった。名字領の山科郷はこの醍醐《だいご》のすぐ北に接し、京に至近《しきん》であるため何とか武家の押領《おうりよう》をまぬがれ、所領からの年貢《ねんぐ》が全《まつた》く絶えた公家も多い中では、まず恵まれたほうと言えた。家格は摂家《せつけ》、清華《せいが》に次ぐ羽林《うりん》家に属し、さきの権中納言《ごんちゆうなごん》である。 「天王寺屋がその気になれば、いかに蜂屋、松屋といえども勝負にはなりますまい。わきから無用な煽《あお》りだてをせねば、せいぜい千二、三百貫どまりでありましたろうに」  僧正はおかしそうに言った。うち続いた戦乱の世に、貴族、僧侶《そうりよ》の社会的地位は有名無実となりはて、素姓《すじよう》のいやしい武家や商人にいいようにふりまわされていたのが、久しぶりに思うさま操《あやつ》りとおせたので、ひどく溜飲《りゆういん》をさげているらしい。 「お約束のとおり、いずれ銭が届きましたら三百貫をお納めください」 「かたじけのうございます。しかし思えば思うほど乱世でございますなあ。一介《いつかい》の商人が茶席の飾りに銭二千貫を費《つい》やすとは」  すると言継卿は含み笑いをした。 「義演どの、その言いようはちと身にこたえますぞ」 「なんと仰せられます」 「乱世はお互いさまじゃ。さきの権中納言ともあろう身が、このような不正をはたらいているではありませぬか」  言継卿はひどく間のびした言い方であった。僧正はそれにつけいるように、鋭い声で言った。 「正倉院《しようそういん》にはまだあの者たちの目の色を変えさせるものが積まれておりましょう」 「それは山ほどあるようです。しかしあの三好《みよし》、松永《まつなが》の党でさえおそれ畏《かしこ》んで手をつけぬ正倉院です。いくら私めが痴《し》れ者でも、このようなことは、二度と願わしくありません」  言継卿にそう言われ、僧正は御物《ぎよぶつ》の持出しをそそのかしてたしなめられたような気分になった。 「世が世であればお互いに、このような苦労はせずともよい身分でありますものを」  醍醐三宝院門跡義演僧正は、慨嘆《がいたん》するように言いとぼけた。しかしその言葉の何分の一かは本音であった。  乱世が続きすぎている。出家《しゆつけ》、僧、学者……そうした文化の担《にな》い手はこの百年|餓《う》えに餓え、よくまあ生きのびて来たものだと、あらためて自己の原始的な生命力の強さに驚くほどである。恥を知る心を棄《す》てたものがよく啖《くら》い、人を多く殺した者がなりあがった。昼も夜も、都大路《みやこおおじ》を安心して歩けるのは、奪われるべき一物も持たぬ餓えた弱者ばかりである。強い筈《はず》の武士は決して一人で歩かない。すれ違う武士たちに、いつ襲われぬとも限らぬからだ。義演僧正も何度かそうした武士同士が闘うのを目撃した。天地を慚《は》じ入らせるようなおめきをあげ、刀槍をふるってやみくもに荒れ狂うばかりである。源平の昔の礼もなければ情もない。敵味方入りまじり、死に狂いに狂いあっているその顔は、欲というには余りにもすさまじいけものの貌《かお》であった。そして今の世のいくさのおぞましさは、轟《ごう》と鉄炮《てつぽう》が鳴るたびに、ひとかどのもののふが、どこの誰とも知れぬ相手に額を割られ胸を撃たれ、いとも呆気《あつけ》なく泥に倒れこむことである。ひとたびは花鳥風月に心を傾けたこともある者が、死ぬやいなや忘れ去られ、手向《たむ》けの歌ひとつ送られずに消えねばならないのだ。つわものの死骸《しがい》に餓えた土民がむらがり、太刀《たち》も槍《やり》も具足《ぐそく》も、あっという間に盗みとられて素裸の肌《はだ》に蠅《はえ》が集り寄って来る。  終って欲しい。いや終らせねばならぬ。……乱世を思うたび、僧としてそう考えるのだが、祈っても祈っても乱世は続いている。「さて、おいとまいたしましょうか」  言継卿が沈黙を破った。 「千七百貫の銭、いったいどうお使い遊ばすのです」  僧正は我にかえって訊ねた。 「なんの、ただはしから酒の料にするだけのことです。このような時勢ではとりたてて贅《ぜい》を尽す欲もありません。飾りたてればかえって命までも奪われる世の中ですからな。ただ安逸《あんいつ》に死ぬ迄酒を愉しめばよいのです」  酒仙《しゆせん》と聞えた言継卿らしい返事であった。 「それはまた言継卿らしい……」  僧正は軽く笑った。二人は立ちあがり、廊下へ出た。 「その内には穏やかな朝もまいりましょう」 「まいりましょうかのう」  すると言継卿はつと足をとめ、含蓄《がんちく》のある微笑を見せて言った。 「きっとまいりましょう。穏やかな朝は、すでにすぐ近くまでまいっておるかもしれませんぞ」  さきの権中納言はそう言ってまた歩きはじめた。     三  言継卿を送り出した義演僧正は、その去って行くうしろ姿を思い浮べながら、春の匂《にお》いの満ち溢《あふ》れる庭を散策した。  何かが僧正の心にひっかかっていた。それは言継卿の不正の片棒をかついだ罪悪感のようだったが、次第にその裏側に別な意味がひそんでいる気がしてきたのである。 「まさか……」  僧正は急に立ちどまって北の方角を眺めた。東山の山なみと比叡《ひえい》の山塊が、春がすみの中で重なっていた。山科《やましな》郷はそのふもとにある。  山科言継は後奈良帝が正親町《おおぎまち》帝に譲位した直後の永禄《えいろく》二年、権中納言と按擦使《あぜち》の役をふたつながら飄然《ひようぜん》と去り、以来|気儘《きまま》な生活を送っている風流人である。先帝の退位に従って官を去るのはそう珍らしいことでもないが、先帝時代には殊《こと》の外《ほか》親任されていた言継卿である。権中納言当時は謹直の聞え高かった人が、六十の坂をこえてなぜ急に正倉院の御物など持ち出す気になったのだろうか。  山科家が代々世襲して来た内蔵頭や御厨司《みずし》所別当などの役料は、とうの昔に絶えているから、余程《よほど》窮乏が耐え難かったのだろうか。  いや、そんなことはあるまい。ひょっとすると、あの開山墨跡は御所《ごしよ》の急場をしのぐために売りに出されたものではないだろうか。言継卿の人柄ならありそうなことである。 「まさか……」  僧正はまたひとりごとを言った。山科家の名字領である山科郷とは北と南の地続きであるから、この醍醐寺と山科家は普通以上に親しい間柄であった。そのために僧正は山科家につたわるひとつの秘密を知らされていたのだ。  山科家は内蔵頭や御厨司所別当を世襲しているほかにもうひとつ、すべての公式文書の埒外《らちがい》にある奇妙な役をうけついでいた。  ヒの司《つかさ》、である。  ヒは日とも、卑、非ともいう。禁中《きんちゆう》では異《こと》の者と呼ぶならわしであるとも聞いている。どのような人間か今では誰も見た者もなく、ただ漠《ばく》とした言い伝えが残っているにすぎないが、ヒは遥《はる》か遠い御代《みよ》からあって、皇室の危難を幾たびも救ったことがあるらしい。  遠い昔、ヒは皇室の更《さら》にその上に位したという説がある。そのためにあらゆる氏姓を拒否し、ヒとのみとなえて世にかくれすんでいるのだ。しかし一朝皇統《いつちようこうとう》の命運がかかる時は、どこからともなくあらわれてその存続に力を尽すといわれている。  時代がくだるに従い、そのヒもいつしか体制の一部にくみこまれたらしく、元応《げんおう》、元亨《げんこう》の頃は日野家の管理下にあったという。しかし元弘《げんこう》、元徳《げんとく》の南北二朝時代、ヒもまた両朝に分裂して相争い、一説には滅んだとも伝えられるが、事実は山科家へ移管され細々と生き残っているらしい。この醍醐のあたりはかつての日野家の名字領であった日野郷そのものであり、今も日野と呼ばれている。従ってヒに関する口碑《こうひ》が多く、僧正はその奇怪な存在についてかなりの知識を持っていたのである。 「穏やかな朝は、すでにすぐ近くまでまいっておるかもしれません」  別れぎわ、そう言い残した言継卿の言葉が耳に残っている。  そうか、ヒが動くのか。……僧正は心にパッと灯がともった思いになった。一瞬の内に千里を駆け抜くと言われ、神々の力をそのままうけついでいるとも言われるヒを、いま言継卿が動かそうとしているのであれば、いかにもその言葉のとおり、戦乱の世は終り、太平の朝が近いに違いない。  平和が来る。僧正はそう思うといつの間にか合掌していた。     四  六月の末、北野天満宮《きたのてんまんぐう》の御誕辰祭《ごたんしんさい》が終り、京の町の神社はそれぞれ六月祓《みなづきばらえ》の準備に入っていた。  蚊柱《かばしら》が立つ宵、都大路にひとつの妖異《ようい》が起った。近頃では絶えて見ることのない華麗な牛車《ぎつしや》が通ったのである。庇《ひさし》、腰総《こしぶさ》には檳榔《びろう》を葺《ふ》き、上葺《うわぶき》も同じ檳榔で唐様《からよう》の搏風《はふ》にしてあった。簾《すだれ》は錦べりで紫色の綾がその裏にのぞいていた。下簾は蘇芳《すおう》の浮線綾《ふせんりよう》に唐草を金糸で縫いとり、ところどころに黄金色の金具が光っていた。  車は巨大な黒牛にひかれ、しずしずと南から御所へ向って行ったが、奇怪なことに牛を引く従者一人見えない。人々はほのぐらい宵の道で、唖然《あぜん》としてその遅い歩みに見とれるだけであった。  醍醐三宝院の義演僧正は、翌朝その噂《うわさ》を聞いて顔色を変えた。実際にそれを目撃した者を呼び寄せ、詳しく牛車の形態を訊ねた。 「唐車《からぐるま》じゃ……」  僧正は驚いて叫んだ。平安の盛時以来、天皇、東宮、摂関《せつかん》、勅使《ちよくし》など、わずかな乗用の例しか残されていない最高位の車であった。 「たしかに従者は一人もおらんだろうな」  訊ねられた者は、僧正の余りに鋭い語気に気おされ、堅くなって「ハイ」と答えるのみであった。 「その車、南からまいったと申すか」 「そのようでございます。いつとはなし都大路《みやこおおじ》を進んでおりましたとか。たしかなことは判りませぬが、三条《さんじよう》あたりで見た者のことばでは粟田口《あわたぐち》から入りましたようでございます」 「ではまさしく……それで御所へはどう乗り入れた。乗り入れたのであろうな」 「ハイ。中《なか》の重《え》の門まで入ったそうにございますが、そのあとはどうなりましたやら、誰も見た者がない由《よし》にございます」 「入ったか。そうか、入ったのか」  僧正は躍《おど》りあがらんばかりであった。 「承明門《しようめいもん》があかあかと火に照らされ、中にはどうやら大篝火《おおかがりび》が焚《た》かれていたと申します」 「そうじゃろう。そうでなくてはかなわぬ」  この頃京で最大の消息通と言えば、十人が十人この義演僧正を指さした。この夏の宵、京の町に起った異変の真相をうかがい知ることの出来る者は、恐らく三人とはいなかったであろう。僧正は直《ただ》ちに本堂に灯明《とうみよう》をあげさせ、本尊|弥勒菩薩《みろくぼさつ》の坐像に向って念じはじめた。  ヒは実在したのである。昨夜の怪事は何よりも雄弁にそのことを証明していた。  山科郷へは三条から粟田口へ出る。道はそこで東山の山あいへ入り、急に南へ下る。その道が山科のあたりへ出る直前に日ノ岡という物さびしい場所がある。一名|妖《あやし》ケ原と呼ばれ、洛中洛外では古くから妖怪の出没する所として知られていた。その日ノ岡から唐車が内裏《だいり》へ向う時、ヒは帝《みかど》を救うために起《た》つとされている。しかしそれは口碑……僧正は今少し詳しく知っていた。  それは勅忍宣下《ちよくにんせんげ》の儀式なのである。ヒが皇室の上に位する頃が仮りにあったとしても、それは遠い遠い神代のことである。現実には、ヒは御所の忍びであった。御所が栄え、帝たちが今よりはるかに攻撃的であった頃、ヒは勅命を受けて東奔西走していたという。彼らはその出動に際し、勅忍の宣下を受けたのであった。  帝がみずから世に太平をもたらそうと遊ばしている。そう思うと僧正は言い知れぬ感激を覚えるのだ。ここまで追い込まれた以上、それは当然のことのようにも思えるが、それにしても何かしら平和への曙光《しよこう》がさしはじめた気持になる。  武家の乱妨はその極に達し、去年は遂に三好、松永の闘争で東大寺大仏殿が焼失していた。いつ御所の塀《へい》があの輩の砦《とりで》がわりにされるか、それは時間の問題でしかなかった。妖力を持つといわれるヒへの勅忍宣下こそ、御所に残された最後の手段である。  しかしどうやってこの乱世に平和をもたらしたらよいか。……僧正は諸国大名の強大な武力を考えた。勅忍といえども忍びは忍び。陽動する軍勢があるわけもない。とすれば、大名同士をぶつけ合い、勤皇の志厚い特定の大名を京に迎え入れて天下を平定させるしかない。ヒはどの武将を操る気だろうか。 「穏やかな朝は、すでにすぐ近くまでまいっておるかもしれません」  ヒの司《つかさ》である言継《ときつぐ》卿がそう言っていた。今の帝の即位礼の費用を献じた西の毛利か。御所修理料を差し出した越後の長尾か。いや、二人とも遠すぎる。近い三好、松永は御所に乱妨をはたらく元凶である。とすれば浅井、朝倉、織田、六角……。  織田。織田……穏やかな朝。そうか、言継卿はあの時自分に秘密の一部を洩《も》らしてくれていたのだ。東から京へ向って来る穏やかな朝は、尾張《おわり》の織田信長のことなのだ。  僧正はそう思いつくと一層読経の声を高くした。織田家は当主信長の父信秀の頃から勤皇の行いがあり、窮乏のどん底にあった御所をたびたび救ったではないか。  ヒを用いて織田をたてる。これほど適切な処置はあるまいと思えた。だが織田のまわりには浅井がいる、朝倉がいる、六角がいる。そして京周辺には三好、松永が蟠踞《ばんきよ》している。果して織田に天下の権をとらせることが可能だろうか。足利将軍の存在はどう処分したらよいのか。  自他共に許す消息通も、所詮《しよせん》僧であった。実際の政治となると見当もつかぬ思いで、ただひたすら仏に念じた。働けば餓えることのない、理由なく奪われることのない平和な世を願って……義演僧正はその日まる一日、本当に坐って合掌をつづけていた。  永禄十一年の夏であった。     五  梅雨の気配を残す、雲脚の早い夜である。  時折り雲間を洩《も》れる朧《おぼろ》な月あかりのほかは灯火ひとつない日ノ岡に、いま一人の僧が立っている。彼は小さな祠《ほこら》の前にたたずみ、しばしもとどまることなく流れ去る夜空の雲をみあげていた。地祇《ちぎ》の呻《うめ》きにも似た深い杜《もり》のざわめきを背景に立つうしろ姿は、まるで時の流れに置き忘れられた者のようだ。  彼は今、戸惑っている。まさに絶えなんとしていたヒ一族を、このせわしくもはかない現世《うつしよ》に呼び戻した者がいたのだ。勿論《もちろん》勅忍の宣下があった以上、それは帝のはからいであるには違いないが、帝をそうさせたはかり知れぬ力が働いているらしい。彼らヒ一族にはそう感じてしまうだけの理由があった。  ヒの者は高皇産霊神《たかみむすひのかみ》の直系である。少くとも一族はそう信じて生きて来た。 [#ここから2字下げ] 天地《あめつち》の初《はじ》めて發《ひら》けし時、高天《たかま》の原《はら》に成れるの名は、天之御中主《あめのみなかぬしの》《かみ》。次に高御日。次に…… [#ここで字下げ終わり] 『古事記』の巻頭の一節である。彼らは天地創造以来最高の神の末裔《まつえい》として国土をひらき、その経営を天皇家にゆだねて来たと信じている。ヒ一族の伝承によれば、日ノ岡はまだ遠い西に人々があったとき、彼らの祖先によってはじめて住まわれた場所であった。それは飛鳥《あすか》も奈良《なら》も京も、まだ人影を見なかった頃のことである。  だがひらくべき国土は尽き、すべての土地に人が住みつく時代が来ると、そうした先駆としての一族は終り、彼らは衰微して行った。時折りその異能を発揮して、天皇家の危難を救うだけの役に甘んじたのである。その役もこの二百年絶えてなく、今は消えて行くさだめとばかり思えたのに、突如この戦乱の世に生きることを要求されたのである。  我々を神が呼び戻した。彼にはそうとしか思えなかったのである。  ヒの者は一族以外の人間をすべて里者《さともの》と呼ぶ俗を持っている。そして今、ヒ一族はごく少数が残っているにすぎない。それは天皇たちの裔《すえ》が各宮家となり、更にその裔が階級を下っていつしか庶民の間に入り混って消えることに似ている。何をもって里者とヒとに区印するか、その境界は明白ではないが、集団としての目的を失っていた一族にとって、中心となっていた一部を除き、ことごとくが里者化して行ったのは無理からぬことであろう。  しかし、ヒの者の特性がまるまる消えてしまったものでもなかった。無人の山野を跋渉《ばつしよう》し、後続する人々への害をとり除く術にたけていたヒの者は、ヒとしての純粋性を失ったのちも、各地に隠れ里に類する別天地を拓《ひら》いて独自の生活を続けていた。彼らの血には奇形を多発させるものがあったからである。  やがて人が増え、そうした隠れ里も里人と交わらねば存続できなくなった頃、彼らは逆にその奇形と異形と、ヒに伝わった山野跋渉の特技を利用して、生活を支えるようになった。忍びの者である。  勿論、うち続く戦国騒乱の世に忍びの利用価値が高まれば、自然里者もその中に混って忍びを働くことになるが、各地の忍びの長《おさ》は今もってわずかながらヒと脈絡を保ち、ヒを忍びの宗家《そうけ》と仰いでいる。  日ノ岡の闇《やみ》に立つ僧形《そうぎよう》のヒは、今それら忍びの長《おさ》たちに呼びかけるため、旅立とうとしているらしい。  夜空を見あげていた彼は、やがて意を決したように一歩踏みだした。しかしそれは道のある方向へではなかった。彼は数歩を動いて古い祠《ほこら》に入った。なかば地に埋り、苔《こけ》むした石積みの祠に頼りなげな灯火をともすと、彼は正面に飾った古い神鏡を、いたわるようにそっと僧衣の袖《そで》でぬぐった。鉄とも銅とも見えるその鏡は、神籬《ひもろぎ》の具としてどこの社《やしろ》にもある物のように見えたが、実は中央部へゆるやかに凹んだ凹面鏡であった。肉は薄く、背面には精緻《せいち》な紋様が刻まれていた。だがその幾何学的な紋様に何らかの意味を見出すことは、ヒの長である彼にすら不可能であったろう。なぜなら実はそれは装飾のためのものでなく、超集積回路であったからだ。  彼は丁重にそれを元の位置に戻すと、一歩さがって左右をたしかめた。  鏡の左手前に一個の宝珠がある。径三寸程だろうか。水晶球のようであった。そして右手前には、宝珠と相対して見慣れぬ剣が立てられている。その剣は柄から先きが二肢に分れ、一見|鋒《ほこ》か天台の仏具である独鈷《とつこ》を思わせた。肉は部厚く、刃はつけられていない。  鏡はみかがみ、珠はよりたまと呼び、この剣はいぶきと呼ばれている。剣に似た道具をこの時代に求めるのも無理である。なぜならそれに最も近いものは、音叉《おんさ》であったからだ。  彼はその三種の神器が作り出す三角形の中央に直立して気息を整えはじめた。やがて腕を挙げ、ゆっくりと両手を合せて八指までを掌中に入れ、残る二指の指頭をつき合せて外へ立てた。真言秘密法によれば九字結印の内の独鈷印という。  彼の心気が凝るにつれ、左後方の宝珠が妖《あや》しく明滅をはじめた。水晶球と見えた宝珠の内部は果して液体か気体か、いま次第に沸きたつような渦動《かどう》をはじめ、白光を息づかせている。  やがて右後方から、吽《うん》……という唸《うな》りが始った。骨をゆするような深い震動音である。明滅する白光と唸りは次第に強まり、せまい祠の中で彼の影が四囲の壁面に乱舞となってうつっている。  突然正面の凹面鏡の中央に波動する何かが浮びあがった。波動は漸《ようや》く静まりはじめ、立体映像となって鏡面に固定した。  その瞬間、彼の姿は祠の内部にかすかな鉄臭《かなくさ》さを留めて掻《か》き消えてしまった。ヒは念力移動《テレポート》する古代の神の末裔《まつえい》であった。     六  同じ夜。  比叡山《ひえいざん》の麓《ふもと》、琵琶湖《びわこ》西岸の坂本《さかもと》の北のはずれに、通称|飛地蔵《とびじぞう》と呼ばれる小さな地蔵堂がある。地蔵|菩薩《ぼさつ》はこの国に渡来して以来、土着の道祖神《どうそじん》信仰と完全に融合しているから、この近江《おうみ》坂本の飛地蔵も、昔は坂本という土地の境神ででもあったのだろう。堂の外観だけでは神をまつるのか仏をまつるのかよく判らない。周囲は亭々《ていてい》とそびえたつ巨杉にかこまれ、その森の中央を、堂の前から湖岸の西近江路へ、小径《こみち》が一直線にのびていた。小径の左右には古びた石の地蔵が四、五十も並び、杉の太さといい地蔵の古さといい、堂は余程遠い時代からここにあったに違いない。  堂の背後に一軒の家が建っている。堂守りのすまいにしては少し大きすぎるようだ。この近在の長《おさ》百姓の家ほどはあろうというしっかりしたつくりで、その裏手には山から湖へ、ななめに小川が流れていた。  馬借《ばしやく》、車借《しやしやく》の姿でにぎわう西近江路も今は静まり返り、その道ぞいに数多い叡山の里坊も、くろぐろと闇にうずまって灯火ひとつ見えない。時折り、轟《ごう》、と夜雨が山を鳴らし、雲脚の早い空に月がせわしく見え隠れしていた。 「飛稚《とびわか》。飛稚ァ……」  老い錆《さ》びてはいるが、野太く逞《たくま》しい声が人の名を呼んでいる。 「おう、こんな所におったか。この夜更けに寝間をぬけ出して何をしている」  家の裏手の小川のほとりに人影がふたつ見えている。ひとつはがっしりと肩の張ったおとな、ひとつはすらりとした子供の影である。 「不思議なことがある。あれは何だったのだろうか」  少年の声であった。 「あれとは何じゃ。言わねば判らぬ」 「権爺《ごんじい》。俺《おれ》はたった今妙なものを見たのだ」  飛稚と呼ばれた少年は、そう言って空を見あげた。ここからなら、森が終っているので湖の上の空がひとめで見はらせた。 「何を見た。聞かせい」  権爺も空を見あげて言った。「睡《ねむ》っていると、ふと目が覚めたのじゃ。誰《だれ》かに呼び覚まされたようじゃった。だが人の声ではなかったぞ。体の奥にずんと響く唸りのようじゃった。なぜか知らぬが、気が騒いで寝ておれなんだ。権爺を覚まそうかと思ったが、それよりも不思議に気がせいた。空が見とうてならぬのじゃ。俺は走って外に出て、ここへ来て空を仰いでいると、叡山から東へ向けて白いすじが走って消えたのじゃ。流れ星のようでもあるが、あんなはかないものではなかった。くっきりと、勇ましいほどに鋭く飛んで消えた白い光じゃった……」  飛稚は指をあげて夜空に白光の軌跡をえがいて見せた。 「そうかそうか……飛稚は白いすじが東へ飛ぶのを見たのじゃな」 「また飛ぶかも知れん。権爺よ、しばらく見張っていまいか」  飛稚はそう言って権爺の顔を見たようであった。権爺は急に飛稚のうしろへまわって両肩に手を置き、少年の髪の匂《にお》いでも嗅《か》ぐような姿勢になった。「どうしたのじゃ、権爺」  肩をおさえられた飛稚は、首をねじ曲げて老人をふり仰ごうとしたが、老人は手に力をいれてそうさせなかった。 「めでたいことじゃ。飛稚もやっと白銀《しろがね》の矢を見るようになったかのう」  権爺の声はだいぶくぐもっていた。 「どうした権爺。泣いているのか」 「童《わつぱ》め、何を言いさらす」  権爺はわざとらしく、急に威勢よく言う。 「何か悪さをしただろうか。夜中に黙って寝間を出てはいけなかったのか」  飛稚は心配そうである。 「よい。それより一緒に謡《うと》うてくれ」 「何を……」 「ヒのうたじゃ」 「よし」  少年は老人の機嫌《きげん》が直ったと見て、うれしそうにうたいはじめた。老人の声がそれに和す。  それは奇妙な合唱であった。節まわしは幾分声明《しようみよう》に似ているだろうか。語《ことば》は異国のもののようであった。或る時は絞るがごとく、或る時は滑るがごとく、高く、低く、細く、太く、二人の声は巨杉の森にしみこんで行く。  このうたを、老人は飛稚が赤ん坊の頃から教え育てて来た。そして何年か前、五智院《ごちいん》の僧が飛稚のうた声を聞き、飛地蔵の者は琉球王《りゆうきゆうおう》の流れではあるまいかと言いふらしたことがあった。北は和爾《わに》庄、南に新羅《しらぎ》明神のあったこのあたりは、今を去る九百年の昔|百済《くだら》人に与えられた土地と伝えられるだけに、そうした飛躍が案外真顔で論じられる土地柄であった。  あれはたしかに琉球の語《ことば》であった……五智院の僧は博識をひけらかしてそう言い歩いた。  だが、異国の語とも聞ける二人のうたも、一句一句よく書き留めればこの国の語であった。しかもそれは、古く古く、恐らくは神代に近い頃の言いようで述べられる倭語《やまとことば》だったのだ。   幸魂《さきみたま》 奇魂《くしみたま》   雲傳《くもつた》ふ 白銀《しろかね》の矢奉《やまつ》れ   東《ひむかし》の 靈山《むすひのやま》の 上《へ》に奉《まつ》れ   百《ももの》 穀《たなつもの》 成《な》る   家給《いへつ》く 日嗣《ひつく》   天下太平《あめのしたたひらき》なむ 「飛稚よ。汝《われ》は白銀《しろがね》の矢を見たのじゃぞ」  すると飛稚は、呀《あ》ッ、と言って両肩に置かれた権爺の手をふりほどき、その手をつなぎ合って躍りあがるように叫んだ。 「そうか、あれが白銀の矢か」 「よう言いきかせてあるように、われらヒの者は昔このうたを謡うて、東へ東へと移って来たのじゃ。その頃のヒの者は、おとなになれば十人が十人、今の汝のように白銀の矢が飛びまいらせるのを見ることができたということじゃ」 「権爺はやはり見えんのか」  飛稚は少しがっかりしたような声になる。 「見えいでもヒの者はヒの者じゃ。儂《わし》のほかにもヒの者で白銀の矢が見えぬ者は大勢おった。珍らしいことではない。したが飛稚、これからは昼も夜も、折りにふれ白銀の矢を見るようになるぞ」 「白銀の矢とはいったい何なのじゃ」 「いま飛稚が見たのは多分|随風《ずいふう》さまのワタリじゃろう。太くはっきりと飛んだらしいでな」 「そうじゃ。くっきりと東へつきささったようじゃったわい。それで、随風さまのワタリとは……」 「ヒの神籬《ひもろぎ》から神籬へ、心に念じただけで百里千里をひととびにするすべじゃ」 「百里千里をひととび……では好きなところへ行けるのじゃな。そのワタリとか、俺にもできようか」 「させるとも。白銀の矢が見えたからには、明日から早速ワタリの稽古《けいこ》じゃ。飛|鹿毛《かげ》も猿飛も、百済寺の小鹿も、みなこの飛地蔵で儂が育て、ワタリを教えて送り出したものじゃ」 「早う覚えたい」  飛稚はピョンピョンととびはねて言った。     七  湖の向うに陽が昇り、道に人影が動きはじめていた。何を獲《と》る舟か、朝靄《あさもや》の湖面に遠い船影が漂《ただよ》っている。ぐおおん……と叡山の鐘が鳴り、飛地蔵の森あたりに、群れた鴉《からす》が啼《な》き交している。  比叡山は三塔十六谷にわけられ、俗に叡山三千坊といわれる程多くの伽藍《がらん》、山坊をかかえ持っている。京の鬼門《きもん》に当るとされ、この時代をさかのぼることおよそ八百年以前、伝教大師《でんぎようだいし》によって延暦寺《えんりやくじ》が開基されたとある。しかしその更に以前から、ここが神の地であったことは疑いもない。日吉《ひえ》神社の神体山山頂には、金大巌《こがねのおおいわ》と呼ばれる古代の磐座《いわくら》が存し、往古《おうこ》の祭神の奥津城《おくつき》とされるその附近の五百津石村《いおついわむら》の磐境《いわさか》なるものは、明らかに古墳群である。  そして比叡も日吉も、古訓はひえである。ひえの意がヒとどうかかわり合うのか、すでにたずねようもない。しかしヒは、ここを古くから子弟の養育地としていたようである。  ヒという神族の裔《すえ》の不思議のひとつは、母がないことである。ヒはすべて男であり、女は全く存在しない。ヒの婚姻を強《し》いて言えば、妻問《つまど》い、である。完全な訪問婚のかたちをとり続けている。天地創造の折りに生じた神の末裔《まつえい》とあれば、それもむしろ当然であったかも知れないが、祖先の祭祀《さいし》に婦《おんな》が加わることを認めない掟《おきて》なのである。彼らは一族以外の者を、里人、里者と呼び、必要なときその里者の婦を任意に選んで情を通じていた。それはあたかも渇きを最寄りの泉でいやすのに似ている。そして孕《はら》めば男児のみを攫《さら》うように連れ来り、一定の養育地に置いて成人を待ったのである。……そこがひえである。従って血縁的な兄弟の観念は薄く、かわりに同朋《はらから》の意識で結ばれていた。  恐らく上古ヒの盛時には、この比叡の山はヒの子供のみがかけまわる別天地であったに違いない。ひえの周辺に里者が住みつき、増え、やがて神秘な一族の別天地は崇《あが》められて里者の聖地となった。……考えてみれば、延暦寺開基以来、この地が多くの学僧を呼び集め、一大文教地区に変貌《へんぼう》して来たのも、ヒの養育地としての遺産をうけついだ為と思えないことはない。  その証拠かどうか、叡山の数多い坊舎で僧たちの勤行《ごんぎよう》が始る頃、飛地蔵でも飛稚の教育が始っていた。ただし、僧たちの学ぶのが仏の教えであるとすれば、こちらは神の道である。  教師である権爺が飛稚に対して神の道という時、そこにはいささかの抽象理念も混ってはいない。文字どおり、往古の神が用いた道のことである。 「御鏡《みかがみ》、依玉《よりたま》、伊吹《いぶき》じゃ」  権爺の講義に余分な飾りはない。いきなり地蔵堂に三種の神器を据《す》えて言った。権爺はそれを三角形に配置し、「こうすれば神籬《ひもろぎ》となる」と教えた。里者が神籬を言う場合、それは神降りする聖所に、常磐木《ときわぎ》、玉垣などをめぐらせ、仏法で言う結界をつくることである。神の依る樹木、岩石、井泉などがその対象となり、臨時に神霊を招請《しようせい》するには、小柱をたてて注連縄《しめなわ》を張り、中央に榊《さかき》などを立てたりもする。だが、権爺の言っている意味は少し違うようである。どうやらヒの神籬とは物理的な力場のことらしい。 「神鏡を作ったなら、次にその中に入り、背筋を伸ばし両足を揃《そろ》えて立つ。よいかな」 「こうか」  飛稚は権爺のまねをして姿勢よく直立した。陽の光で見れば、十二、三の少年である。容貌は公家の子にも珍らしいほど、すずやかであった。 「よそごとを思わず、ひたすら行きたい場所を念ずるのじゃ」  飛稚はしばらく目を閉じて考える。権爺がその両手を合せてやり、八指を伏せ、二指を外へ揃えて立たせる。 「だめじゃ。行先が判らぬわ」  飛稚が言うと権爺は哄笑《こうしよう》した。 「まだよい。今日は形だけじゃ。したが、どこへでもというわけには行かぬぞ。先きにこれと同じ御鏡が無《の》うては」 「それなら知っておる。いつか崔爺に連れて行ってもろうた百済寺じゃ。あそこで小鹿にこれと同じのを見せてもろうたぞ」 「そうじゃ。百済寺にもある」 「ほうぼうにあるのか」 「おうともさ。ワタリを覚えたらそのあとは諸国の神籬の場所を知りに旅をせねばならぬのじゃ。その場所へ行き、けしき、たたずまいを頭に刻まねば、神籬があってもわたれぬ道理じゃぞ」 「それなら行く先に三つ揃わねばならぬのか。御鏡、依玉、伊吹のどれかが欠けていればどうなるのじゃ」 「行く時は三つ要るが、着くのは御鏡だけでよい。したが、着いても次へはわたれぬぞ」 「知らぬ場所の神籬を念じたらどうなる」 「それは決してすまいぞ。まだ見ぬ場所、聞いただけの場所、うろ覚えの場所へわたれば二度とこの世へは戻れぬことになる。ワタリは遊びではないと言うのはここのことじゃ」 「無理にわたればどうなるのじゃ」 「この世には、神の場所と鬼の場所がある。わしらがこうしているのは、神がひらいたよい場所じゃ。無理にわたると鬼のひらいた悪い場所へ行き、鬼のとりこになるじゃろう」 「鬼がいるのか」 「いや、誰も戻った者がおらんのでわからん。昔からそう言われているまでじゃ」  権爺の説明は児童むけにかみくだいているらしいが、ひょっとすると彼自身それ以上の説明ができないのかも知れない。  とに角、念力移動《テレポーテーシヨン》は人智を越えた現象である。権爺の説明を補足すれば、移動の方法を誤ると異る次元へ転移する危険があるらしい。  飛稚は権爺から恐るべきスピードで教育されて行く。理論はなく、実際的な方法のみを教えられる。手に荷物を持ってわたれること。神籬を大きくして何人でもわたれること。御鏡と依《よりたま》玉だけで遠隔感応ができること。依玉と伊吹で一種の防禦《ぼうぎよ》スクリーンができること。特にワタリは生得の体質が関係していて、飛稚のように白銀の矢を見ることのできる人間でないと不可能であること、などであった。 「いったい白銀の矢とはどういうものなのじゃ」  最後に飛稚はたずねた。権爺はそれに対し、再びかみくだいた説明を加える。  人は勿論、草、木、鳥、けもの、虫、魚、およそ生あるものはすべてどれほどかずつの魂を与えられている。生あるものすべてをつかさどるヒの神は、今日の生と同時に明日の生の司《つかさ》でもあった。よき種をよき土地にという樹木の願い、……よき人に育てと祈る親の願い、それら生きとし生けるものの持つ、あらゆる明日への祈りが凝った時、それは一条の白銀に輝く矢となって神の御許に至るのである。そしてその白銀の矢が寄り至る土地こそ、古来ヒ一族が求めてやまぬ産霊山《むすびのやま》であったのだ。産霊山に至った白銀の矢の祈りを、神はより合せ、つき砕き、打ちこねて明日を作っている。それによって兎は耳敏《みみざと》く、鳥は空を舞い、たんぽぽは種を飛ばすようになったのである。  だがヒ一族が神代からたずねたずねした末に判ったのは、その産霊山が諸国至る所にあったという事実である。日ノ岡もそうなら飛地蔵も、百済寺も、その他まだ飛稚の知らぬ数多くの神の山々があり、どこにも御鏡と依玉と伊吹の三種が安置されていた。三種の神器は神がその産霊山の間をめぐる、神の道を形成しているらしい。生ある者の祈りを白銀の矢として見ることのできる神の末裔は、その神の道を用いることを許された者でもあったのだ。     八  七月になっている。  一片の雲もない空に、太陽が白光りに照り熾《さか》っている。  その強い日ざしも巨杉の葉に遮《さえぎ》られ、飛地蔵《とびじぞう》の森は堂に至る中央の小径《こみち》だけがしらじらと眩《まぶ》しく見えていた。 「殺してくだされ。容赦は要らぬことじゃ」  権爺《ごんじい》が大声で喚いた。 「おうさ」  どこかで錆《さび》のきいた声が答え、ぶうんと二度ばかり風の切れる音がしたかと思うと、白く輝いている小径を飛稚《とびわか》がうしろ向きにさっととび越えた。 「まだじゃ、ほれッ……」  十二、三の童児とは思えぬ鋭い声で追って来る逞《たくま》しい僧に挑《いど》みかける。僧はもちろん叡山の者であろうが、六尺余りの角棒をふりまわし、だだッ……と一気に小径を踏み越えると、鋭い矢声と共に危険な風音をたてて飛稚に打ち掛って行く。  戞《かつ》、と乾いた音を立てて僧の棒が杉の幹を打った。今までそこにいた飛稚はふわりと僧の頭上四尺ほど飛び越え、あっという間に巨杉のどこかに隠れ込んでしまった。僧は棒を構えキョロキョロとあたりを見まわした。足の踏み込み気息の間合、どう見ても上手の境に達しているようだが、飛稚の逃げようは明かにそれを上まわっている。 「ちいっ。やめじゃ……」  僧は相手を見失って舌打ちし、棒をトンと地に立てて構えを解いた。「権爺よ。飛稚はえろうなった。月に苧《からむし》一匹ではきついことじゃ」  すると権爺は嬉《うれ》しそうに目を細めた。もう何年も前から、権爺はこうやって叡山の僧を飛地蔵に招き、飛稚の体練をさせて来たのである。そして今、どうやら月に布地一匹の謝礼が実ったらしく思える。 「飛稚、今日はもうよい」  権爺は杉木立の中へ声をかけた。 「話に聞いておるが、飛地蔵の子は代々みな筋がよいそうだの」  世間ばなしをはじめるつもりらしく、僧は袖《そで》をたくしあげて風を入れながら、地蔵堂の縁へ腰をおろして歩み寄って行った。  が、誰《だれ》も気づかぬ内に堂の扉《とびら》が押しひらかれていて、そこに草鞋《わらじ》ばきの雲水《うんすい》が立ちはだかっていた。棒を小脇《こわき》にかい込んだ僧はそれに気づいて一瞬身構えかけ、その途中で竦《すく》んだように動かなくなった。 「長い間の体練相手、ご苦労でござる」  雲水にいわれ、棒の僧は何やら口ごもっている。 「や、随風さま、いつの間に」  権爺が愕《おどろ》いて声をあげた。 「暑い日じゃのう」  随風と呼ばれた旅の僧はひらりと堂からとび降り、「変りないか」と権爺をいたわるように言う。 「ず、随風どのとな」  棒つかいの僧は随風の名を聞いて畏怖《いふ》したようであった。その筈である。随風と言えば当時叡山に鳴り響いた天才的な学僧で、天台|座主《ざす》すら疎略には扱わぬと言われていた。「こ、これはご無礼申しあげた。いずれあらためて……」  棒の僧はあわてて一礼すると逃げるように飛地蔵の森を去って行く。 「おう、飛稚か。大きゅうなった」 「お久しゅうございます。随風さま」  飛稚はこわごわと言って権爺のうしろへまわった。 「今のとびよう、見事であった。飛鹿毛も、猿飛らもその歳では今少しじゃった。飛稚は筋がよいらしい」 「何の、それどころか。飛稚はすでに白銀《しろがね》の矢を見てございますぞ」 「ほう、そうか。見たか」  随風の顔に微笑が浮んだ。秀《ひい》でた額、整った眉目《びもく》。幾分面長で耳朶《じだ》がひどく豊かであった。肌《はだ》はしっかり陽に焼けてたくましい。どこか面ざしが飛稚に似ていた。 「あれは六月の末じゃった」  権爺は飛稚の同意を求めるように言い、「その頃随風さまは諏訪《すわ》か鹿島《かしま》へわたられたのではござらぬか」と訊ねた。 「いかにも。飛鹿毛、猿飛らにも逢うて来たぞ。みな息災《そくさい》であった。白銀の矢を見たら、やがてあの者たちにも逢うことになろう」  随風はそう言い、飛稚を見つめて何やら考える様子だった。 「ともかくあれへ」  権爺はいそいそと随風を裏手の家へいざなった。  家に入り汗を拭った随風は、飛稚と権爺を前に置いて、ひどく冷たい言い方をした。 「飛稚がひとり立ち出来ると聞いて思いついた。飛稚を織田につけよう。よいな」  飛稚はこくりとうなずいた。 「早うござる」  権爺が抗議した。「飛稚はまだやっとわたりをはじめたばかりじゃ。それに織田と言えば諸国の牢人《ろうにん》も二の足を踏むと言う程の厳しい家中……」 「権爺。育てるものが無うなって気の毒じゃな」  随風は皆まで言わせず口をはさんだ。「その歳で子らが一人も無うなってさぞ淋《さび》しかろう。しかし諦《あきら》めい。昔はいつも子の十人はいてにぎやかじゃったこの飛地蔵も、今は飛稚一人になっている。ヒのよりどころが無うなって、皆里者なみの暮しをしはじめたからじゃ。あの百済寺の鹿さえ、小鹿をわが子と呼び、父と呼ばせている有様じゃ。だがそれもいっときの辛抱よ。儂《わし》はヒを昔のヒに戻してみせよう」 「昔のようにでござるか」 「そうじゃ」 「出来ましょうか」 「出来る。飛稚が儂のワタリを見たのは多分あの夜のことであったろう。あの夜、儂は御所で勅忍の宣下を受けて参ったのじゃ」  権爺はのけぞって愕《おどろ》いた。 「勅忍。それはまことでござるか」 「いかにも。元弘、元徳以来のことじゃ」 「して、めあては何でござる」 「織田の天下を招来するのよ」  随風は造作もなさそうに言った。 「それで飛稚を織田へ……」 「そうじゃ。この永禄《えいろく》八年、足利《あしかが》将軍義輝が三好、松永の手にかかった折り、ご舎弟の一乗院門跡覚慶は甲賀《こうが》の和田館に奔《はし》り、諸方を転々としたのち、名も義昭と改めて今は織田に頼ろうとしている。その義昭と織田を結ぶはたらきをつとめておる者が二人いる。一人は細川藤孝、もう一人は明智《あけち》十兵衛というお方じゃ。飛稚はその十兵衛どのにつける。権爺は十兵衛どのを存じておろうな」 「知りませいでか」  権爺は随風を鋭くみつめて言った。 「十兵衛どのはすでに山科家の命で仕度《したく》につかわされてござった。かの人に飛稚を引き合わせるまで、しっかり教えてやってくれ」 「承知……」  権爺は喉《のど》に何かつかえたような声で短く答えた。母の存在しないヒ一族にあって、権爺は父とも母ともつかぬ立場であるのだ。末ッ子に当る飛稚との別れが近いことを思うと、何かしら物かなしいに相違なかった。権爺はしきりに目をしばたたいていた。     九  暑い日が輝く中を、権爺と飛稚は慌《あわ》ただしく飛地蔵をあとにした。  足利義昭はこの七月の半ば、それまでいた朝倉家を去り、浅井家の保護のもと、下旬までには美濃《みの》に入る予定であった。二人はそれに間にあうように指示され、瀬田から野路、草津、守山、篠原、鏡と、文字どおりとぶような旅を続け、不破《ふわ》の関を越えて稲葉山の西郊まで来ていた。  この前年、織田信長は美濃に押入って稲葉山城を陥し、すぐに大城を築いて地名も岐阜《ぎふ》と改めてしまっている。  権爺にも政治的な動きはよく判らない。まして飛稚は毎日近くの小川へ行って魚とりに興じているばかりである。体練の日課もなく、ワタリの稽古《けいこ》もないので、いいあんばいに羽根を伸ばしているのだ。権爺はそんな歳相応の振舞いを、まるで自分が遊んでいるかのように嬉しそうに眺めている。まもなくいや応なしにおとなの世界へ、それも厳しい織田軍団の一部に組み込まれなければならない飛稚の、残り少い子供の日々だと思っているからであろう。  二人は小さな百姓の家を借りている。 「戦《いくさ》はするべきでない」  権爺は寝物語にそう言って聞かせる。「あってならぬのが戦じゃ。人が死に、山が焼け、作物が枯れる。それはみな、この世の宝じゃ。宝を失って互いに何の得があろうぞ」 「じゃが敗けねばよかろう。人は生れるし家は建て直せる。作物はまた種を播《ま》けばよい」  飛稚が言った。灯の消えた粗末な寝間の闇《やみ》の中であった。 「違うぞ飛稚。次の作物が稔《みの》るまでには時がかかろう。家を建てるには新しく木を切らねばならぬ。切った木がまた生《は》え、その太さになるには何年もかかるのじゃ。人死《ひとじに》は死んだ者の損ばかりではない。飛稚は権爺が死んだら悲しかろう」 「うん……」 「権爺が死んだら飛稚はなぜ悲しい」 「俺《おれ》は権爺が好きじゃ」 「そうじゃろう。わしも飛稚が好きじゃ。なぜ好き合《あ》うのじゃ」  権爺はひどく哲学的な質問をした 「…………」 「見知らぬ同士では好き合えん。死人《しびと》同士も好き合えん。生きて知り合《お》うて、ことばを交えずばなるまいが。……それには長い月日が要るぞ。知り合うてからも」 「そうじゃ。ずっと生きておらんでは知り合えん。知り合うてもすぐ死んだのでは好きになれん。……でも今夜の権爺は面白いことを聞かせる。何やら当り前のことばかりじゃ」  飛稚は闇の中でクスクス笑った。 「大切なのは作物や家ばかりのことではないということじゃ。作物も家も人も、みな長い時がかかっておるということじゃ。時ばかりは二度ととり戻せん。戦に勝っても、時を失う。宝を失う。おろかなことよ。……ヒのうたにあろうが」  権爺は寝たまま低くうたいはじめた。   百《ももの》 穀《たなつもの》 成《な》る   家給《いへつ》く 日嗣《ひつく》   天下太平《あめのしたたひらき》なむ 「ヒは天下《あめのした》をたいらけくするために働いて来た。ヒの者は人を殺《あや》める術《すべ》を用いんのじゃ。争いには逃げるのみよ。よいか飛稚、くれぐれも争うではないぞ。このたびのように、一度ヒが働きにかかったからには、必ず戦をおさめさせねばならぬ……飛稚、睡《ねむ》ったのか」 「…………」  闇のなかに軽やかな寝息が聞えていた。明日は二十二日。細川藤孝と明智十兵衛が、足利義昭と共にこの西の荘へやって来るという前の晩のことであった。  信長が美濃を平定した時、京の御所の方針はきまったようであった。正親町《おおぎまち》帝は直ちに勅書を発し、美濃・尾張《おわり》の御領地回復と幕府の再興を命じている。同時に越前《えちぜん》一乗谷にあった前将軍の弟、義昭も信長に使を発していた。ふたつはひとつ源から出た動きである。  義昭は越前朝倉家の諒承《りようしよう》のもとに一乗谷を発し美濃へ向ったのである。七月十六日には近江《おうみ》の浅井長政の館に迎えられ、そこを二十二日に出た。かつぎあげれば天下の権を握ることさえできる足利義昭は、これら強剛の間では一種の利権の種でもあった筈《はず》なのに、何の問題も出ず順送りに新興の織田へ送り渡されている。……随風らヒの高度な政治的活動があったに違いない。     一〇  その日、足利義昭は五百余人に警護されて昼すぎ西の荘の立政寺へ入った。勿論《もちろん》権爺も飛稚もその行列を見物しに行った。 「何じゃ、つまらん男よ」  権爺は馬に揺られて来る足利義昭をひと目見てそうつぶやいた。しかし飛稚のほうは、一行の先頭に騎乗している明智十兵衛という人物を見て、天地が逆さになる程びっくりしていた。  秀でた額。整った眉目。ゆたかな耳朶……随風と瓜《うり》ふたつであったからだ。 「権爺、権爺」  飛稚は低声《こごえ》で呼んだ。 「何じゃ、血相を変えて」 「あれは随風さまか」  すると権爺はニヤリとした。 「里者なみに言えば随風さまの兄者じゃ」 「随風さまの……」 「ヒの長《おさ》はひとつ胤《たね》の者のうち、いちばん下が継ぐきまりじゃ。明智十兵衛どのは随風どのの八歳上の兄じゃ」 「なぜ早くに教えてくれん」  飛稚は権爺がひどく重大な手落ちをしていたように思え、少し膨《ふく》れた。行列が立政寺へ入ったあとも、じっと考え込んでいる。  ヒに兄弟はない。ただどこからともなく連れられて飛地蔵で育てられるのだ。しかし容貌《ようぼう》などで自然親を共にする仲間は知れる。飛稚はさきに飛地蔵を巣立って行った、飛鹿毛、猿飛の二人が、自分の兄に当るのをなんとなく知っていた。そしてその三人は、ヒの長である随風にそっくりだった。つまり随風を親とする三人兄弟である。ヒが末子相続の掟《おきて》を持つならば、ヒの長はやがてこの飛稚がうけつぐはずであった。飛稚ははじめてそうした自分の地位を発見したのだった。 「さて、宵には立政寺で十兵衛どのに会わねばならぬ。浴《ゆあみ》して髪なども結いあげねばのう」  権爺は考え込んでいる飛稚の肩を叩き、たのしそうに言った。  その夜飛稚は立政寺で明智十兵衛光秀という人物に会い、彼の従者に加えられた。と言ってもこの時期明智光秀の従者は飛稚を加え、たった二人きりであった。一人は二十四、五の痩《や》せた背の高い青年で、名を石川小四郎と言った。  権爺は立政寺に飛稚を置くとそれ以上留る理由がなく、何か気落ちした後姿を見せて帰った。その夜から、飛稚は生れてはじめて、いわば他人の飯を食う身になったのである。  従者になった、と言っても、すぐきまりきった仕事を与えられたわけではない。ぼんやりしていれば一日中何も用がない。光秀は多忙で、岐阜へは毎日、時には清洲《きよす》へも行く。自発的にそれらしい役を探《さが》して働かねば居辛いし、かと言って見知らぬ者ばかりの立政寺に坐《すわ》っているのも気づまりだった。だから最初のうちは石川小四郎のあとばかりついて歩いたが、小四郎は小四郎で毎日ちゃんと光秀の命令を受けて行動している。うっかり外出について行くとまるで小四郎の従者のようで面白くなかった。結局飛稚は用があってもなくても、光秀の声の届く範囲にいるのが自分の役目だと勝手にきめ、光秀の動静にだけ気を配った。岐阜へ行くときは馬について駆《か》けた。 「飛稚、すこしは慣れたようだな」  幾日目かに光秀が馬上からはじめてそう言ってくれた。 「これでいいのでしょうか」 「よい。そなたはよう心得ておる。さすがは飛地蔵の仕込みじゃ」  光秀はそう言った。案外やさしい。……そう思い、権爺はこの事に関して何も教えてくれず、すべて自分が考えて行動したことであるのに気づくと、ひどく褒《ほ》められたような気分になった。  光秀はしきりに家来を集めているらしい。織田家から新しく五百貫の知行《ちぎよう》をたまわり、義昭に対する織田側の奉行《ぶぎよう》の役になったという話であった。家来が増えれば自分はすぐ古株になれる。飛稚はそんなことを考えていた。  二十七日の昼前。飛稚は立政寺で織田の軍勢がすぐそこまでやって来たという声を聞くと、何もかもほうりっぱなしで走り出た。  何度も西近江路を通る軍勢を見たが、織田勢はまるで違っていた。第一に目をみはる程華美であった。  この日足利義昭を訪問した部隊は、織田勢の中核をなす精鋭で、当時唯一の統一軍装をととのえていた。揃《そろ》いの朱胴を着用した歩兵五百が、同じ朱の長槍を林立させて進む。その先方に騎兵三百、後衛の先頭には信長自身がおり、銃兵六百と騎兵一千が従っている。  しかも行進の歩度は常識外の速さである。飛稚は知らぬが、電撃戦を身上とする織田軍に、儀杖《ぎじよう》の歩度はなかったのだ。今にも敵の城門に襲いかからんばかりの勢いで、足早に大地を踏む軍兵の足音が、ざくざくと潮の寄せるように進んで行った。その人の気を圧する速さは、敵ばかりか味方の軍兵、沿道の見物人までまきこんでしまう勢いに溢《あふ》れ、飛稚はその勇壮さに胸の鼓動を早くさせられていた。  立政寺の門前には警護の陣容で甲賀の和田惟政と多羅尾《たらお》四郎兵衛尉の手勢四百が横隊を組んで待っていた。  ……これに天下をとらせるのか。飛稚はそう思った。人の世の並々でないことを、彼はしみじみとかみしめている。随風や権爺のはなしを聞けば、ちょこちょこと小手先の細工でどうにでもなるようだが、このとてつもない軍事力を見れば、敵をあやつるより味方のほうが恐ろしい。  ヒがどれほど役にたつのだろうか。飛稚はそう思い、一瞬無力感にとらわれた。信長という人の顔など、眩《まぶ》しくて目が行きもしなかった。飛稚はその日一日、いきり立った物々しい立政寺を避け、権爺と一緒に泊った百姓家の近くの小川で、ぼんやりと水を眺めていた。まるで手がつけられない思いであったからだ。     一一  濃尾《のうび》平野に蜩《ひぐらし》が鳴きはじめた九月のはじめ、飛稚《とびわか》は唐突に戦《いくさ》にまきこまれた。  信長が足利《あしかが》義昭を擁《よう》して兵を動かしたからである。光秀はすでに三百余の一隊を持ち、同じ程の細川藤孝隊と共に、義昭直衛となって出動した、光秀の馬の轡《くつわ》は石川小四郎がとり、飛稚は番外の小者としてそのそばに従っていた。  信長本隊は恐ろしい勢いで進みはじめる。明智隊が動いたとき、前衛はすでに山へ入って見えなかった程である。来た時の道を、飛稚は今、光秀の馬のあとから戻りはじめているのだ。少年にとって、道が故郷へ向いているというだけで胸が躍《おど》った。  近江の箕作《みつくり》城へは十二日に着いた。細々と秋雨の降る日で、後衛の義昭直衛部隊が行く道は、ぬかるみ放題にぬかるんでいた。  先手は、佐久間、浅井、木下といった織田の部将たちであった。箕作城は昼すぎに攻めはじめたが、じれったい程陥ちなかった。飛稚は今にも城兵が打って出て、味方が総崩れになるのではないかとさえ思った。しかし戦慣れた兵たちは、濡《ぬ》れた草に腰をおろし、のんびり干飯《ほしいい》などを噛《か》んでいる。 「子供、こわいか」  雑兵の一人がからかった。飛稚は自分の顔に恐怖があらわれていたと覚ると、猛烈な自己|嫌悪《けんお》に襲われたようであった。 「誰《だれ》がこわがる。あほうめ」  馬借、車借の口達者ばかりいる坂本で育った飛稚は、いざとなると思い切り憎たらしく反応できる。  くそ、ワタリもできぬくせに。……飛稚は生れてはじめて里者を蔑《さげす》んだ。ヒの出自《しゆつじ》に誇りを感じようとした。そしてそれは急に膨れあがり、どうしようもない衝動となった。  俺《おれ》はヒの長《おさ》になる人間だ。……飛稚はその地位にかけ、何かをせずにはいられなかった。気がつくと箕作城の北側面へ向って、秋雨の中を走っていた。城に近づいて見たかったからである。  秋雨のけむる中に銃声が轟《とどろ》いていた。寄手はひっきりなしに城門へ駆け寄っている。二、三十人ずつ、寄せては返し、寄せては返している。彼らの足もとがひどくぬかるんでいるのが、はっきりと見えた。飛稚は細い松の幹に手をかけ、ひととびに上の枝へ乗った。寄せ手の一人が城門の前でゆらりと膝《ひざ》をついた。それに二人ばかりが駆け寄り、肩をかして退いて行く。 「案外死なぬものじゃ」  昂奮《こうふん》して思わず一人ごとを言った。すると背後の草の中で声がした。子供の声だった。 「おぬし、随分と合戦ずれしているな」  飛稚は愕《おどろ》いてふり向きざま枝からとび降り、咄嵯《とつさ》に身を翻《ひるがえ》して小さな岩に身をひそめた。 「それに素早い」  草の間から顔をあげたのは、四角い顔の男の子だった。年齢は飛稚と同じくらいだ。 「誰じゃ」  飛稚は言った。 「安心せい。織田方じゃ。俺はおぬしを見知っているぞ。明智の殿の腰巾着《こしぎんちやく》をしておろうが。な、そうじゃろうが」 「おぬしは……」 「俺はおぬしと違い大将なしよ。今の所は和田さまの手勢の用をしている。どうじゃ、仲ようせぬか」  奇妙な子供だった。飛稚は相手のほうが自分よりずっと戦場ずれしているのを、その落ちつきようで覚った。 「よし、仲間になろう」  すると相手はのそのそと飛稚の所へやって来て、何か白いものをくれた。見ると握り飯であった。しかもどういうわけかまだあたたかい。飛稚は黙って受け取ると、ひと口頬《ほお》ばりながらまた攻められている城を見た。 「戦はおもしろいな」  子供は口をもぐもぐ動かして言った。 「うん」 「俺の名は犬走りの六じゃ。おぬしは……」 「飛稚」  彼はそう答え、しばらくして握り飯を食い終ってから、「犬走りか、妙な名じゃ」  と言った。 「夜には陥ちような」  犬走りの六はそう予言した。城の中で火を焚《た》いているらしく、時々城内の一部が明るくなった。 「誰と一緒じゃ」  飛稚はこの少年に興味が湧《わ》いた。それだけ落着いて来たとも言えよう。 「俺か。俺は父《てて》なしの母なしじゃ。ずっと以前戦で村が焼かれた。母はその時死んだ。父はその前から戦に駆り出されていてな。どうなったかは知らん」 「主《あるじ》もないのによう陣へ置いてもらえるな」 「俺は働いている。雑兵でも下人でも、人は誰も面倒がりじゃ。面倒なことを気安くかわってやる者がいれば便利じゃろうが」 「しかし危くはないか」 「なんの。危いのは大将の采配《さいはい》どおり陣におる者らよ。離れてさえおれば戦もただの見ものじゃ。それもとびきり面白い見ものじゃ。もし味方が敗けたら勝った方へ行って働く。飯さえ食えればどうでもいい」  犬走りの六は妙に悟った笑い方をした。     一二  箕作誠は犬走りの六の予言どおり、夜に入って落城した。織田軍はその城に少数を置き留め、すぐに発進した。次に大休止をとったのは、翌日観音寺山城へ入ってからである。観音寺山にいた六角承禎と義治の親子は、城を棄てて伊賀《いが》へ逃げ込んだということであった。  義昭直衛隊は脚が遅い。義昭という荷物があるからだ。信長が観音寺山城に入ったとき、まだ箕作の辺をうろうろしていた。  犬走りの六はいつの間にか明智隊へまぎれ込んでいる。石川小四郎が一度こわい顔で彼の事を訊ねたので、飛稚は自分の知り人であると答えて置いた。小四郎は飛稚が特殊な任務の為に従軍していることを薄々知っているらしく、犬走りの六をそのまま黙認してくれた。  信長本隊から使いが来て、脚の遅い直衛部隊もようやく速度をあげ、二十二日には湖岸へ着いた。義昭は疲れた顔で桑実寺へ仮泊に入った。するとここで光秀隊は急に先駆に立ち、半ば駆けるようにして京へ向った。 「京ははじめてじゃ」  犬走りの六はそう言ってはしゃいだ。彼は盗みの達人であった。物資調達の名手と言ってもいい。とにかくあっという間にどこからか、その時々に必要なものを持って現れるのだ。おかげで飛稚は面白おかしく日を過している。  この時光秀は願い出て先駆したようである。その理由は勿論飛稚に判ろう筈もないが、どうやら目的は山科《やましな》七郷の保全であったらしい。光秀はここに陣をしき、三井寺《みいでら》に在る本隊を待った。  実質的に信長は箕作城の戦闘一度きりで、楽々とその先勢《さきぜい》を京に入れてしまったことになる。飛稚はその辺りのことも別段不思議と思っていなかったが、山科へ着いて見ると、織田軍最先鋒であった筈の明智隊の前に、千に近い軍勢が先着し、整然と陣を張っているのに驚かされた。  光秀は自陣の手配りを終えると騎乗のまま、先着の部隊へ挨拶《あいさつ》に出向いた。従ったのはいつものように石川小四郎と飛稚であった。  そこで彼は随風を見た。  随風は例によって雲水姿であったが、光秀に向って深く一礼した。 「随風、大儀であったな」  瓜ふたつ。光秀と随風が向きあっていた。「おかげで何の戦《いくさ》もなく済んだぞ」 「箕作では縮尻《しくじ》りました」  随風が詫《わ》びている。「手がまわりかね、戦にさせてしまいました」 「それにしても豪気なものじゃ。これほどの忍びを一度に見るとはな……」  光秀はそう言って先着の部隊を眺《なが》めまわした。飛稚は驚いて光秀のするように眺めまわした。  これがすべて忍びの者たちか。……飛稚は呆《あき》れた。あからさまに見ることもできないとされている忍者が、千人近くもかたまっているのだ。 「忍びが無《の》うては戦ができぬ。正倉院《しようそういん》はじめ、あちこちの御物《ぎよぶつ》をかき集めて銭算段をなされた言継《ときつぐ》卿もこれで満足であろう」  光秀はそう言って笑った。 「それにしても宗家の威光は地を払い申した。銭でのうては動かぬ者ばかりでござる」 「詮《せん》ないことよのう」  二人のヒは、そう言って苦笑した。光秀は馬をおり、道ばたに腰をおろした。随風も並んで坐る。 「したが、どうもいけませぬ」  随風が言った。 「御所のことか」  光秀は眉《まゆ》をひそめる。 「義昭、信長さえ上洛《じようらく》すればそれで終るとしているようです。足利将軍の威光が旧に復して、室町《むろまち》の秩序が再び整うと信じ込んでいるように見えますのじゃ」 「愚かなことじゃが、御所ではそれ迄の考えが精々のところであろうな」 「嫌《いや》なことになりましょう」 「なぜ」 「我々は御所の存続のみに力をかす一族として生きて来ました。御所は織田を義昭と共に京へ入れることを我らに命じ、我らは今、ほとんど戦をさせずに、その役を果しました。近京の諸大名どもから忍びをとりあげ、情報不足にした上、抗戦を思いとどまらせるあらゆる策を用いました。だが織田は美濃、尾張二国の大名にすぎません。我らが役を果しても、手を引けばすぐに織田は危うくなりましょう。役が終えたあとも、御所を守るために織田を支えてやらねばなりますまい」 「やむを得ない。御所のためばかりではない。百年続いた戦の日々も、もうこの辺りで終りにしてやらねば、いずれ人は餓えて死に絶えねばならぬわ」 「織田を将軍にするまで、このまま支えつづけてくれましょうか」 「言継卿もそうお思いじゃ。御所のことはもう放って置こう。われらの考えでせねば、御所はあてにもならぬ」  その間に、飛稚は日ノ岡へ走っていた。もちろん、飛地蔵へワタリ、久しぶりに権爺の顔を見るためにであった。 「お、飛稚め、さっそくに……」  しばらくして随風が北を向いて言った。光秀も飛稚がわたったのを感じたのであろう。随風と顔を見合せて笑った。     一三  ヒは本来俗世の動きに超然としているべきであった。皇室の存続だけを問題にする、というヒのありようは、結局この世の全体的な動向が大きな不幸に向わぬよう、梶《かじ》をとり直してやるということであった。……梶のとりようが、それで正しい時代が久しく続いて来たのだが、いつしか皇室の幸福が人々の幸福を意味し得なくなってしまった。世が乱れ、多極化しはじめた。元弘、元徳以後、ヒが世に隠れ活動をとめ、衰微して行ったのは当然と言えよう。皇室は世の中心として価値を失い、それ以外のどの勢力をヒが後援しても、結局一部の小さな利害にかかわる結果にしかなり得なかったからである。  ヒ……或いは神といってもよいその隠れた力は、本質的に一部の利害にかかわることを嫌《きら》う性質を持っていた。しかし現実にその力を行使するものは、ヒ一族という人間たちであった。彼らが自らの本質をよく理解しなかったからと言って、責めることはできまい。このうちつづく戦国騒乱に、つい絶えて久しい太平の世を夢みたのである。皇室の復権が太平を意味する……長い伝統を持つヒ一族は、すでに皇室そのものの存在意義が変化しているにもかかわらず、一筋にそう思い込んでいた。そして皇室の復権を果す手段として、とりあえず勤皇の武家を京に迎え、天下の乱を治めさせようとしている。「嫌《いや》なことになりましょう」随風が光秀にそう言ったのは、そうした目的の為には、一時的に織田信長個人の利益を守るはたらきをしなくてはならない、ということをさしていたのだ。  この世の全体を考えるとき、皇室ではなく群雄の中の一人のあと押しせざるを得ない時代に変っている。もしかすると随風も光秀も、そうした自分たちの決断が、ヒ一族の存在理由や性格までも変えることになりかねないのを覚るべきであったかも知れない。だが人間の知恵が現実にまきこまれた中でどこまで神を見抜けよう。御所では織田軍の上洛を見て事なれりと単純に手を打っている。それにくらべれば、織田の天下招来は、まだ緒についたばかりだと自覚している者のほうが、どれ程賢明であった事か。  随風たちは御所側でいう勅忍の使命が信長、義昭の上洛で終ったあとも、引続き活動を続けている。たしかにその点、御所は全くあてにならなかった。信長がそのまま京に居すわるものと思っていたのだ。しかし信長は京周辺の掃蕩《そうとう》を終え、十月十八日義昭の将軍|宣下《せんげ》を見るとすぐ美濃へ帰国した。留守にした自領が、まだまだ不安定であり、するべきことが山積していたからである。京には佐久間、村井、丹羽、明智、木下の諸将が残った。  光秀はその残留部隊の中で慎重に諸国の動きを監視していた。明けて永禄十二年正月の五日。三好三人衆が急に起って義昭の宿所である本圀寺《ほんこくじ》を襲った時も、飛稚をはじめ忍者群の素早い連携で各地に急を報らせ、あぶなげなく撃退している。  信長が急遽《きゆうきよ》再上洛し、新将軍の為に二条第《にじようだい》の建設をはじめた。光秀は本圀寺防衛で見せた能力を高く買われ、信長の部将として重用されはじめ、苦笑しながらその役柄をつとめていた。  伊勢《いせ》や但馬《たじま》が平定され、信長は次第に強大になって行く。随風はいずれ北|近江《おうみ》、越中《えつちゆう》方面で信長が大きな試練に直面せざるを得ないと見て、この間対浅井、朝倉工作に没頭していたようである。光秀は京仕置の地位を望み、信長の実力を背景に義昭将軍を操縦し、御所の経済的希望を次々に叶《かな》えてやっていた。  飛稚は京周辺の地理を覚え、この辺りにかなりの密度で分布している神籬《ひもろぎ》の場所を記憶し、光秀の使いとしてとび廻るようになったが、それは同時に戦乱の世の悲惨を見聞きすることでもあった。  孤児が大勢いた。犬走りの六のような身の上の子供が、京の内外に溢《あふ》れているのだ。飛稚はいつしか犬走りの六の物資調達力を利用して、浮浪の子らに食を恵むようになっていた。しかし浮浪の子らは決しておとなしくない。犬走りの六を指揮者とする少年少女の集団ができ上り、その不良集団の頭目のようなかたちに、飛稚はまつりあげられている。そうした京での自由な生活は、飛稚に人生を教え、生きる命の尊さを味わせたようであった。  だが時代は刻一刻と大きな戦いに傾斜して行く。光秀も随風も、信長上洛の時のような無血方針が、所詮《しよせん》一時しのぎの小細工にすぎないことを覚っているようだ。太平の為の戦《いくさ》なら仕方がない。……方針はそう決しているらしい。  永禄《えいろく》十三年四月。信長軍三万は京を出て山中《やまなか》越えで坂本へ出た。明白に天下平定の出兵であり、御所はその二十三日、元亀《げんき》と改元して門出を祝った。信長軍は越前《えちぜん》に侵攻し、随風は気比神宮を謀略の拠点に活躍した。  果然乱戦になった。信長の妹、お市の方を室として姻戚《いんせき》にあった浅井が信長の背後を衝《つ》き、家康、秀吉が活躍する転進作戦が生じ、それはそのまま姉川《あねがわ》の合戦につながって行った。浅井、朝倉連合軍は敗退し、小谷《おだに》城にのがれて一段落となった。とにかくヒ一族のもくろみは、着々と成功していった。織田は正確な情報を得て不敗であった。……随風、飛稚、百済寺の鹿父子などが神籬から神籬へととび交い、彼らは毎日のように神秘な白光となっていた。     一四 「合戦になると急に白銀《しろがね》の矢が多くとぶ。なぜだろうか」  信長が姉川から戻り、京に入った寸暇を見て日ノ岡から飛地蔵へわたった飛稚《とびわか》は、ひどく深刻な顔で権爺《ごんじい》にたずねた。 「ワタリの時に見える白銀の矢よりは細かろう」 「そうじゃ。嚏《くさめ》のあとで目の中にとぶ玉つぶに似ている」  飛稚が言うと、そのたとえがおかしいとひとしきり大笑いしたあとで、権爺はさとすように説明した。 「それは人の祈りが凝ったものじゃ。明日の命が知れぬ時、人は明日の命もあれよと思わず心から祈るものじゃ。それは陣中でばくちに打ち興ずる雑兵が、賽《さい》を手にしてふと祈ったものかも知れん。糞をたれながら里の女房子を思い出した大将のものかも知れん。みな自分でも気づかぬ内に、明日のわが命を願うのじゃ。人とはそういう生き物よ。おかしいとは思わぬか。明日の命をそれほど願うなら、なぜ戦《いくさ》などはじめるのじゃ」 「願いは白銀の矢となって産霊山《むすびのやま》へ入るのじゃな」 「そうじゃよ。したがそのことはヒのほかは誰も知らぬ。知らずに祈って明日を作るのじゃ。この世の人がすべて気をそろえ、天下《あめのした》の太平《たいらぎ》を祈れば戦などすぐ終ろうものを……雲|伝《つた》う、白銀の矢|奉《まつ》れ、産霊《むすひ》の山の上《え》に奉れ、というのはこのことじゃわい」  権爺はしんそこじれったそうに言った。彼はそのあと、ヒの伝統的な使命感について、彼なりの言葉で綿々と飛稚に説いた。それはこの時代ではすでに実用的でなくなった、古めかしい理窟《りくつ》かも知れない。しかしその分純粋であった。平和の為に戦うという新しい理窟を、権爺はくそみそにこきおろしたのだった。 「神のいる神籬《ひもろぎ》の場所を知っておればのう」  飛稚は家を焼かれて泣き叫ぶ母親たちの姿を思い浮べながら言った。母のない飛稚には、平和に暮す母親たちを、この上もなく貴重なものに思っているらしい。それは盗みで命をつないでいる、京の浮浪児たちの姿にもつながっていたようだ。 「神のいます神籬こそ、すべての神籬の芯《しん》じゃ。じゃが芯の神籬がどこか、昔のヒですら知らなんだ。ヒは神代からずっとそれを探し求めておるのよ」  権爺は言った。「それを探り当て、そこで願えば戦《いくさ》などすぐにやむはずじゃ」 「俺《おれ》はそれを探しあてたい。そして今すぐにでも戦を無うしてくれと願いたい」  権爺は目を細めた。その表情は、さすが次代のヒの長《おさ》となるべき者……そうほめているようだ。  だが一旦《いつたん》天下の権へ転がりはじめた信長の周辺には、次々に戦火があがった。飛稚はその日の内に光秀に従って摂津《せつつ》へ向い、石山本願寺の囲みに加わった。本願寺からはいまだかつてない程の白銀の矢が発《た》つのを見た。  本願寺の顕如《けんによ》は浅井、朝倉と連携していた。摂津へ信長が入ると、その虚に浅井、朝倉がつけこみ、兵を南近江へ出して九月二十日、宇佐山城の織田信治らをたおし、浅井長政らは急に比叡山《ひえいざん》に拠った。先勢《さきぜい》は京へ迫り、山科《やましな》、醍醐《だいご》に火が放たれた。 「勅忍のことが洩《も》れている」  随風は蒼《あお》い顔で光秀にそう告げた。一時掌握した各地の忍びが、それぞれの利害に戻って活動をはじめているらしい。浅井勢の叡山占領、山科放火など一連の動きは、ヒ一族に重大な衝撃を与えていた。随風はあわただしく諸国の忍びの長《おさ》のもとへワタリ、それにつれて飛稚も多忙になった。浅井に占拠された坂本にいる権爺の身を案じながら、飛稚も西へ東へとぶ。  光秀はいの一番に摂津から京へ駆け戻った。信長も野田、福島の囲みをといて帰洛する。その年も戦《いくさ》につぐ戦《いくさ》であった。  元亀二年の正月。随風はたまりかねて弱音を吐いた。 「所詮《しよせん》ヒも公家《くげ》もなりさがった」  そう言った。官位のみ高く実力をともなわぬ公家は、すでに武家から無視されて久しい。随風は在野の忍者集団と宗家のヒの関係がそれと同じになってしまっていると嘆いたのだ。 「手に余る……」  光秀も時々そうつぶやいている。信長という一個人を世の中心とたてたばかりに、ヒの神性が俗にまみれたのである。信長を中心に、利害の範囲が日ましに拡大し、要因がふえて人智の制禦《せいぎよ》限界を超えてしまっている。光秀はいつしか神の末裔《まつえい》ではなく、信長の一部将として全体のごく一部を見ているにすぎなくなっている。  信長はその夏近江へ出張り、小名木城を攻め、木之本、余吾を焼いた。そして九月には新村城、小川城をくだし、金ケ森城を陥すと瀬田へ戻って三井寺に陣した。 「坂本を封ぜよ」  信長は光秀にそう命令した。光秀はヒ一族の故郷ともいうべき坂本の南に布陣し、京への突出を封じた。信長は三井寺から帰洛の動きを見せていた。九月十一日であった。     一五 「飛稚はこの辺りで育ったのじゃな」  犬走りの六は、湖岸の低い崖《がけ》の上に腹ばいになって、夕陽に映える対岸の景色を眺《なが》めている飛稚に言った。崖の上は一尺ほど黒い土が平らになっていて、犬走りの六はそういう危っかしい場所を今夜のねぐらに選んだらしい。城の石垣《いしがき》の上に築かれた塀《へい》は切り立った石垣との間に少し間隔があり、そこを犬走りと称する。犬走りの六の名は、従う軍が城に入った時、いつもそんな場所で寝ていたことからついた呼名らしい。だから慣れているのだ。 「この辺りは知り抜いている」  飛稚は短く答えた。権爺がすぐそこにいるのに、会いに行けないもどかしさがある。いちばん近い神籬《ひもろぎ》でも日ノ岡まで行かねばならないのだ。 「ゆずたちはどうしていようか」  ゆずとは京の浮浪児の中にいる少女の名である。六もまた仲間を想い出しているらしい。秋の日の、ふと人を思いうかべるような夕方であった。 「また誰《だれ》かに泣かされておらねばよいが」  飛稚は気分を変えて答えた。 「あれはみめよい女じゃ」  六は大人びた言い方をした。「飛稚を好いておるぞ」 「やくたいもない」  飛稚は照れて強く言った。 「いや、好いておる。女の仕方を知っているか」  六はニヤニヤしながら言った。 「女の仕方……」 「睦《むつ》み合うことじゃ」  六にズケリと言われ、飛稚は赤くなった。いい具合に夕焼けがそれをかくしている。 「六は知っているのか」 「何度も見たぞ。いつも戦のさい中に雑兵どもが家を蹴《け》やぶって女を手ごめにする」  実は飛稚も再三目撃はしていた。しかしなんとなく意識の外に置いて駆けぬけてしまうのだ。だが六はそうではないらしい。「何度もよう見たから、しようと思えばもうできる。……少しくさいがの」  六はそう言ってケタケタと笑った。くさいというのが飛稚の驚きをさそった。六はそんな近くで見物していたのか、と思った。 「京へ戻ったらゆずを女房にせい。早うせんと人にとられるぞ。ゆずはみめよいから、行きずりの雑兵の手ごめにでもされたらつまらん」  六は真面目に言った。飛稚の内部で、何か古い殻《から》が欠け落ちたような具合であった。  ……もう俺にも子が作れるか。飛稚は自分自身を眺めまわすようにそう思った。権爺に自分の子を預けたら喜ぶだろうか。彼は何かとびはねたいような気分であった。そういうことを考える自分が大人びて嬉《うれ》しかった。 「六はどうじゃ。女子《おなご》は」  すると六はみるみる赤くなり、ごくりと何度もつばをのみこんだ。 「ゆずほどの女子はおらん。ゆずは飛稚を好いておる」  一気に言い、言ったことを忘れたいかのように崖からとび降りた。「飛稚、勝負じゃ」  六はそう叫んで相撲を挑《いど》んだ。二人の少年はとっくみ合い、汀《みぎわ》をあばれまわった。飛稚が勝ち、六はころがった。 「よいか、京に戻ったらゆずをやるのじゃ」  六はあおむけにころがったまま、飛稚の瞳を深くとらえて言った。  その夜二人は小犬のようにじゃれ合いながら湖岸の草むらで睡《ねむ》った。寝入りばな、飛稚はヒの掟《おきて》を少し破って、産霊山《むすびのやま》について六に語って聞かせた。 「もし本当なら、ゆずと三人でその山を探そう。神に会ったら俺はお母《かあ》を戻してもらう。お母が戻ればみめよい女子など要らぬわ」  六は飛稚の話をお伽《とぎ》ばなしのように気楽に聞き、ねむそうにそう言った。大きな秋の月が湖の上にのぼり、比叡山から時どき白銀の矢がとぶのが、飛稚には見えていた。  しかしその払暁《ふつぎよう》、二人は織田勢独特の急調子な軍兵の足音に起された。 「ご本陣じゃ」  六はすばやく崖の上へとびのって言った。 「京へ戻られたのではなかったのか」  飛稚は意外そうに言った。  意外は光秀も同じことであった。なぜ信長の本隊が朝靄《あさもや》をついて現れたのか理解に苦しんだ。比叡山の封鎖は光秀一手で完全なのである。  信長は光秀に何の連絡もせず、先勢を通過させた。 「どのようなご下知《げち》か」  たまりかねて光秀は通りすぎる一隊の長に声をかけた。男は光秀の顔をしばらくみつめ、結局何も言わず礼をして去った。 「なんとする気じゃ」  光秀は石川小四郎に向ってつぶやいた。無言で通りすぎた男の蒼白《そうはく》にひきつった顔が不安をかきたてている。 「叡山を攻めるのでは……」  石川小四郎がひょいと言った。実際にはそれ以外考えようのない状況であった。しかし叡山に籠《こも》る浅井長政にはお市の方という信長の実の妹が嫁《とつ》いでいる。叡山の法灯は千年近く俗界の争いの枠外《わくがい》に奉られて来た。叡山は仏法の源であり、あらゆる学芸の中心であった。……それらの常識が光秀を迂闊《うかつ》にさせていたらしい。 「まさか」  光秀はそう叫んで信長のもとへ走った。信長は走って来る光秀を見るなり、機先を制するように言った。 「わかったか光秀」  光秀は膝《ひざ》がふるえているようであった。 「さ、山門を……」 「さようじゃ」  信長は言い、ひきつった顔を居並んだ部将たちに向けた。「堂塔伽藍《がらん》ひとつとして残すでない。残せば明日のさわりになろう」 「しかし……」  光秀が叫んだ。 「言わせぬぞ。比叡の山ひとつ、まるごとならして湖《うみ》へ埋めてやる気じゃ。光秀、望みの攻め口をとらそう。駆けに駆けて名を挙げい」  議論の余地はなかった。信長が妹の生命はじめ、山門を焼く社会的な得失を考え抜いたすえ決断していることは疑いもない。信長は信長なりに天下平定の近道を考えたのだ。山門を焼いても京に近い敵を屠《ほふ》ってしまわねば、この先何年泥沼の戦がつづくか見当もつかないのである。  光秀は何か巨大なものに裏切られた気がして、立っているのがやっとであった。……ヒのふるさとを失っても、太平の世が来るのなら仕方あるまい。……そういう諦観《ていかん》が生じたのは、ずっとあとになってからであった。     一六  飛稚と六は汀《みぎわ》を走っている。 「手伝うてくれ。俺《おれ》の権爺を救わねばならぬ」  大軍の動きを見て飛稚は咄嗟《とつさ》にそう言ったのだ。二人の少年が石ころだらけの汀を走り、道を兵が走って行く。松明《たいまつ》をなびかせた騎馬武者の一隊が追い抜いて行く。  山上から銃声が聞えはじめた。朝靄がどんどん消えて行く。飛地蔵《とびじぞう》はまだ遠い。  坂本の街並みにまず火の手が挙った。方々で鐘をつきはじめ、それが湖からの風に入り混って、飛稚には熱病の耳鳴りに聞えた。  騎馬隊が山下を焼きまわり、のがれ出た人々を蹴散らす。僧もたくましい馬借たちも、逃げ場を失って山上へのがれて行く。 「斬《き》れ、斬れ」  何度もそういう叫びを聞いた。銃声の中を徒《かち》の兵が大挙して山へ這《は》いのぼっていく。槍《やり》の穂先がきらめき、火縄銃が吠えた。 「何をする、人でなしめ」  飛稚は叫びながら汀を走る。六も走る。しかし道は直線になっていた。鏖殺《おうさつ》命令を受けて逆上した兵が、狂ったように町家、宿坊に襲いかかっていた。  懐かしい汀であった。魚を追い、水を浴び、生れてこの方遊びくらした岸辺であった。飛稚は飛地蔵の小径《こみち》から一直線に通じているその個所へ来ると、体を斜めにして森へ曲った。草も小石もすべて幼馴染《おさななじみ》であった。 「飛稚危い。とまれ、とまれ……」  六が叫んでうしろから飛稚をつきとばした。飛稚はつんのめり、道を少し手前でころがって、したたかに額を石段で打った。額が割れ、思わず押えた手を戻すと、べっとりと血がついていた。  森の鴉《からす》がけたたましい羽音をたてて、一斉に舞いあがった。二十人ばかりの兵が森へかけこみ、叫びかわしていた。三、四人が森の出口に頑張《がんば》っていて、白刃が朝日を受けて不気味に輝いた。 「行けば斬られるぞ」  六が言った。たしかにそうに違いない。比叡山に襲いかかったということで、だれもかれも頭へ血をのぼらせていた。 「でも権爺がいる。権爺はわたれぬのじゃ」  飛稚は額の血をこぶしでぬぐい、きっとなって言った。「俺は行く。六はここにおれ」  飛稚はとび出した。 「それなら俺も」 「よせ、出るな」  大声で叫び合いながら道へとび出すと、兵はうろたえて切ってかかった。  ひらり……幼い時から叡山の武芸僧にきたえられた体練が物を言った。驚くべき跳躍力で白刃をかわした。 「飛稚ァ……」  六がはるか後方で叫んだが、その時すでに飛稚は小径へ走りこんでいた。 「待てえッ」  兵は追って来る気配であった。  森の突き当りに赤いものが見えた。 「権爺……」  飛稚は叫んだ。母でもあり、父でもあった。随風が飛稚にとって里者のいう父に当ることは知っていた。しかし随風に父を感じたことは一度もなかった。彼にとって権爺こそ父であり、飛地蔵だけが故郷であった。  その故郷の家はいま、羽目から火を噴きだしていた。すでに火をかけられ、軒から白いけむりが這いのぼっている。 「権爺……」  するとどこかで「応」という野太い声が聞えた。見ると地蔵堂の左手の杉木立の中で、権爺が大きく飛びあがって白刃をかわしている。 「飛稚か。来るでない。逃げよ、逃げよ」  権爺は言った。その時右の杉木立でも彼を呼ぶ声がした。 「飛稚ァ……」  六が必死で杉木立の中をかけまわっていた。二人の雑兵がそれを夢中で追いまわす。 「逃げい。森から出るのじゃ」  今度は飛稚が六にいう番だった。だがいかにはしこくても、六は普通の子供だった。一人が杉の巨木を逆にまわりこみ、別の一人に追われた六の出会いがしらに刀を突き出した。六のか細い胴を肉厚の白刃が一気につらぬいた。 「とび」  六は絶叫し、操り人形のように雑兵の太刀に踊った。子供をさし殺したその兵は、うろたえ気味にそれを引き抜くと、足もとに倒れた血まみれの小さな体にやっと正気に戻ったらしく、ぼんやりと見おろしていた。 「なぜ六を殺した。なぜじゃ、なぜじゃ」  飛稚は無防備な姿勢で茫然《ぼうぜん》としている兵にとびかかり、その胸を拳《こぶし》で叩《たた》いた。その兵ともう一人の兵は、しばらく泣き喚《わめ》く飛稚のなすがままにじっと見つめていたが、やがて慚《は》じたようにボソリと言った。 「戦《いくさ》じゃ。戦じゃ」  二人は逃げるように森を去って行く。 「おいぼれ、死ねッ」  飛稚は六をかかえあげるひまもなかった。 「権爺ッ、堂の中じゃ、神籬《ひもろぎ》じゃ」  彼は堂へかけのぼって言った。 「知っておる」  権爺は答えた。だが大勢の兵に囲まれ、ひどく息を切らせていた。飛稚は堂へとびこんで二股になった伊吹《いぶき》の向きを、依玉《よりたま》と平行にそろえ、神籬の中央に鏡を背にして立った。 「い、いま……いま行くぞ」  権爺の声が堂のすぐ傍でした。飛稚は掌を合せ、印を結んで心気を凝らせた。 「と……飛、わ、か。」  飛稚の目の前に権爺が切れぎれに言った。その背後で槍がきらめいた。権爺は右肩を大きく割られ、血にまみれていた。 「産霊山《むすびのやま》を……芯の山を」  槍が腰の辺りを突きさした。権爺は息をつめ、白眼を剥《む》いた。槍が引かれると、それについて権爺の体は堂の下へ転げ落ち、飛稚の視界から消えた。それにかわって白刃をひっさげた兵が二人駆けあがった。 「童《わつぱ》……」  二人は同時に叫んで切りかかって来た。飛稚は目を閉じて祈念した。  依玉と伊吹の間に青白い光が走り、その線を超えようとした兵は、稲妻に打たれて大きくはねとばされた。 「おっ、殺《や》ったぞ」  外の兵が叫び、堂へ乱入した。数万ボルトもあろうかというバリアーが作動し、乱入する兵は次々に焦《こ》げ死んだ。 「火だ。焼いてしまえ」  外で何人もが叫んでいた。すぐ堂の三方で火の発する風音がした。飛稚は神籬に籠《こも》ったまま、印を結んでいた。  なぜだ。犬走りの六はなぜ死んだ。権爺はなぜ死んだ。なぜ人は人の手にかかって死なねばならぬのだ。敵もない、味方もない。あるものは人を殺す戦《いくさ》ばかりだ。ヒの神はどこにいる。神もまた死に絶えることがあるのか。人々の明日への祈りは、ただ白銀の矢となるのみで、虚しくどこかへ消えてしまうのか。産霊山《むすびのやま》はどこにある。芯の山は……。  飛稚は泪《なみだ》も湧かぬ乾き切った絶望の中でそう思った。火が堂内に姿を現し、轟《ごう》と鳴った。  俺も死ぬ。……そう感じた時、飛稚はひとつのことを思いついた。  死ぬ前に神に会おう。芯の山の神のいる神籬へわたろう。場所は知らぬ。わたれぬかも知れぬ。それでもわたろう。行って戦をすぐにとめてもらおう。権爺を生かしてもらおう。六を生かしてもらおう。六と京へ戻ってゆずに子を生まそう。そしてその子を権爺のところへ連れてこよう。権爺と六とゆずと、みんなで暮すのだ。六のお母《かか》も生かしてもらおう。  神……それがどんなものか、飛稚は一心に考えた。まだ見ぬ場所のまだ見ぬ相手ながら、心気を凝らして念ずれば、ひょっとして行けるかも知れない。いったい神はどんな顔をしているのだ。どんな場所にいるのだ。  飛稚は御鏡《みかがみ》に向い、神を想像した。想像した神のもとへ行こうと願った。炎はすでに天井を這い、神籬は火につつまれて堂は焼け落ちる寸前であった。  吽《うん》……底深い響きが起り、白光が明滅した。鉄臭《かなくさ》い匂《にお》いが発し、やがて飛稚の姿が消えた。堂が焼け崩れ、権爺の死体を炎にくるまれた柱が打った。六の死体を火の粉が襲った。  飛稚はいつものワタリよりずっと烈しい衝撃を味わっていた。そこにも炎があった。石の広い道の両脇で、びっしりとたてこんだ家々が燃えていた。煙の中を二輪の不思議な乗物にまたがった者が、背をまるめて走り去った。さきのとがった頭巾《ずきん》をかぶり、荷を背負った人々が、悲鳴をあげながら逃げ惑っていた。時々空から何かが降って来て、それが地に当るとまた新しい火の手が挙った。轟々と空を往くものがあり、時折り強い光が鳥のような銀色の翼を照らしだした。 「お母《かあ》ちゃァん……」  はぐれた子供が泣きながら炎の下をくぐって近づいて来た。飛稚はその子の手をひき、人々の去った方角へ駆けだした。  ここにも戦《いくさ》がある。飛稚は自分が異る時代に紛れこんだのを本能的に覚っていた。  いつから続いている戦なのだろう。まさか比叡のときから続いているわけもないだろうが。飛稚はそう思った。自分は神を求めてここへわたった。しかし見知らぬ場所へのワタリは鬼の世なのか。神はいないのか。  飛稚は昭和二十年三月十日未明の東京の下町を、どこともいつとも知らぬまま、火に追われて逃げていた。  真説・本能寺     一  秋の陽ざしがさんさんと照りつける中に血まみれの死骸《しがい》が転がっていた。  それもひとつやふたつではない。うねうねと山頂へ這《は》い登って行く黒い土の道に、幾十、幾百という死骸が、累々《るいるい》と倒れ伏しているのである。死骸はほとんどが僧侶《そうりよ》であった。  道ばかりではない。道をそれた斜面にも、踏み荒した闘争の跡が歴然と残り、黝《くろ》く凝血《ぎようけつ》した血のりの中に死骸が転がっていた。二股《ふたまた》に分れた樹の枝に上体をかけ、背中に槍《やり》を突きたてて、立ったままむくろになっている者もある。いまわのきわに地を掻《か》きむしった者の腕が蝋色《ろういろ》に白く伸び、五匹の蝮《まむし》の子のように鎌首をもたげた指が、去ってしまった魂を呼び戻そうとしているかのように見えた。杉《すぎ》と苔《こけ》の匂《にお》いに血の香が入り混り、時折り鼻先きをかすめてとぶ蠅《はえ》の羽音は、死骸の傷口をわたり歩いたまがまがしさに溢《あふ》れている。  谷の底のほうから突然|鴉《からす》か荒々しくとびたち、静まり返った死の山に、カア……とひと声だけ、谺《こだま》を残して啼《な》いた。  その死骸の道を四人の男がひっそりと登って行く。 「糞ッ。叡山の鴉とあれば仏法ぐらい心得よッ」  その中の一人はたまりかねたように、鴉が湧いた谷底へ石つぶてを投じた。石は音もなく茂みに消える。 「わめくな、小鹿」  すぐ前を歩いていた小具足《こぐそく》姿の武士が振り向いて言った。 「じゃと申して、あれをごろうじませい」  小鹿と呼ばれた十五、六歳の若者は、いかつく四角ばった顔を赤くして死骸の二、三を指で示した。あおむけに倒れたその死者たちは、すでに鴉に眼球をついばまれ、正視にたえぬ貌《かお》になっている。小具足姿の武士はやっとそれに気づいたらしく、足をとめ首をすくめた。 「あおのけには死ぬまいぞ……」  それは自分に言い聞かせているようなつぶやきであった。 「よう見よ。これがいくさじゃ」  先頭の僧も足をとめ、腹の底からしぼり出すような声で言った。僧の歳ごろは三十五ほどであろうか。秀《ひい》でた額、整った眉目《びもく》。幾分面長で耳朶《じだ》がひどく豊かであった。肌《はだ》はしっかりと陽に焼けてたくましい。 「随風《ずいふう》さま。このような山中の堂塔|伽藍《がらん》が、どれほどいくさの役に立っておりましたのか、お教えくだされ」  小鹿と同じ年|恰好《かつこう》の若者が言った。色白で薄い唇《くちびる》をした、見るからに敏《さと》そうな若者であった。 「比叡《ひえい》は無論地の利を得ておる。ここに浅井・朝倉の手勢がこもれば織田は京と南近江に釘《くぎ》づけになる。だが堂塔伽藍に多くの意味はなかった」 「幼い頃より寺や宮を建てるすべを学んでまいりましたが、あの弾正忠《だんじようちゆう》のさきざきのおそれとなるような力が、この叡山の堂塔伽藍にあったのでございましょうか」  重ねてそう言われた随風は、かすかに眉《まゆ》を寄せて相手を眺《なが》めた。 「そうか。藤右衛門は宮大工であったな」 「はい」 「寺の建物にもいくらかは城や砦《とりで》のような力はある。しかし所詮《しよせん》寺は寺じゃ」 「では弾正忠はなぜ叡山に火をかけました」 「織田信長にとっては、叡山に火を放つこと自体に意味があった……」  随風はあたりを見まわしながら言った。すぐ近くにも、黒こげに焦げた柱が立っている。屋根は焼け落ち、焦げた柱だけが死者をとむらう卒塔婆《そとば》のように天をさしていた。「武力で叡山を焼いた。信長のこの行ないは天下を震えあがらせるであろう。あの者の天下統一への意志がどういうものか、これで人々は思い知ったのじゃ。あの者に従わぬ人間は死を賭《と》した勝負を挑《いど》むよりない。従える者は、なまじな策略を棄《す》て、ひと思いにつき従うよりなくなったのじゃ。織田信長はいま、天下にそれを示したわけよ。たしかにすさまじい心意気ではある。千年の権威も血のつながりも断ち切って、いまあの男は天下に味方か、しからずんば敵かと問いかけたのじゃ」  随風は再び歩きだしながらそう言った。 「や、随風さま、瑠璃堂《るりどう》が焼け残っておりますぞ」  小具足姿の若い武士が大声で叫んだ。声と同時に二人の少年が列を離れ、小道へそれて走りだした。 「ようも火をのがれたものじゃ」  随風もそうつぶやぎながら小さな瑠璃堂へ近づいて行く。  元亀二年九月十二日。信長によって突如侵され、根本中堂をはじめ山王二十一社、東塔の坊舎などすべてを焼き払われたこの比叡山にあって、西塔の近くに道から外れてひっそりと建つ小さな瑠璃堂だけは、全く無瑕《むきず》で難をまぬがれていた。 「なぜこれは火をまぬがれたのじゃ」  藤右衛門はあたりの地形を眺めながら小首をひねっている。 「あほう。藤右衛門のあほうめ。汝《われ》は信長めとひとつじゃ」 「何を言う、小鹿」 「もう俺《おれ》は小鹿ではない。与右衛門という名がある」 「おうそうか。それならば藤堂《とうどう》の与右衛門に訊ねようではないか。この俺がなんで信長とひとつじゃ。言うてみい」  宮大工中井の藤右衛門は、故郷を灰燼《かいじん》に帰させ、昔なじみの老若の僧侶千数百を虐殺した織田信長と一緒にされ、心の底から怒りを発したようであった。 「中井の藤右衛門はとしわかじゃが、大和《やまと》でも図抜けた宮大工の一人になったそうな」  幼名小鹿、今は藤堂与右衛門となった若者が、異母兄に向ってよりは、随風たち年長者に訴えるように言った。「だが心は信長と同じじゃ。信長はおのれの天下のことしか考えず、この叡山に火を放ちおった。藤右衛門もおのれのわざばかりしか考えぬ男じゃ。この瑠璃堂が火をまぬがれたのを見て、なぜ火にかからなんだとかぬかしおった。瑠璃堂が残って悪いか。焼けなんだのがくち惜しいか」 「やめい、与右衛門」  小具足姿の武士がたしなめた。「藤右衛門とてそのような気持で言うたのではない」  若い武士の名は山内猪右衛門、猪右衛門、藤右衛門、与右衛門……三人の顔かたちはまるで違っているが、どことなく似たものを漂《ただよ》わしている。異母兄弟なのである。彼らの共通の父は弥右衛門と言う。しかしその遠祖をたどれば、天地創造以来の最高神、高皇産霊神《たかみむすひのかみ》であった。彼らはみずからの一族を≪ヒ≫と称し、人々にさきがけて国土をひらき、その経営を後続する天皇家にゆだねて来た者の末裔《まつえい》なのであった。     二  ヒには女がいない。神に仕える身で、婦《おんな》の穢《けが》れを避けた為だろう。ヒは一族以外の者をすべて里者と呼び、その里者の女と気儘《きまま》に情を通じては子を得ていた。男児のみを彼らがひえと称する一定の養育地へ連れ去り、そこに置いて成人を待った。信長に焼かれたこの比叡の地こそ、彼ら共通の故郷なのである。  衰微した御所の復権を願う正親町《おおぎまち》帝が、忘れ去られていたヒを召し出して勅忍の宣下を行なったとき、ヒはすでになかば散りかけていた。その昔なら、養育地ひえを巣立った若者たちは、ヒの長い隊列に加わって諸国の山々をへめぐっていただろうが、今は集団としての目的も失い、里者の中に紛れこんでしまっていた。  三人の異母兄弟も、ひえで養育されたのちそれぞれの縁をつたって、里者の中で暮している。猪右衛門は北《きた》近江《おうみ》横手城の城将木下藤吉郎の部下、与右衛門は近江愛智郡長野郷の地侍の子、そして藤右衛門も早くから大和《やまと》の宮大工中井家にもらわれて今は天才設計家として頭角をあらわしている。  比叡山に火がかけられなかったら、この三人も集い合うことはなかっただろう。しかし、今、三人は無惨に荒らされた故郷へ馳《は》せ戻って来ている。ヒの長《おさ》である随風に課せられた勅忍の使命はすでに一応終っていたが、一旦《いつたん》呼び覚されたヒは、何かしら目に見えぬものの力で、往古の活躍を再現しようとしているのかも知れない。……少くとも随風にはそう思えた。里者とは違い、兄弟の意識が薄いこの三人の異母兄弟にも、左の耳朶《じだ》にそれぞれ抜きさしならぬ血縁の証拠が、黒い一点の黒子《ほくろ》となってあらわれている。  その黒子はヒの血が持つひとつの不思議であった。一族に女を持たぬヒが里者の女に子を産ますとき、一人の父の子らはみな全く同一の部分に特徴ある黒子を生じさせるのであった。弥右衛門の三子は左の耳朶に黒子を持っている。随風の子の場合には右の乳下であった。  しかし、その右乳下に黒子を特つ随風の末子は、織田の兵に焼かれ、養育役の権爺と共にふもとの地蔵堂で焼かれてしまったらしい。 「光秀どのはこのさきどう遊ばすおつもりでござろうか」  口の重い猪右衛門が、山を下りはじめたとき随風にポツリと言った。 「十兵衛どのも辛かろうな」  随風は苦い微笑を浮べて答える。「ヒがこのような一人の武家のあと押しをせねばならぬのじゃ」  彼は首をめぐらせて山をふり仰ぎながら言った。 「手を引くわけにはまいらぬのじゃろうか」 「信長にここまでさせて引きさがってはヒがすたれよう。このむごたらしさも天下のため……いくさをなくすためのいくさにせねばのう」 「いまヒが手をひけば織田は滅びましょうか」 「なんとも言えぬ。諸国の忍びどもも、はじめは忍びの宗家としてヒを盛りたててくれた。しかしあの者どもも生きねばならぬ。織田の敵方にまわる者も出はじめたが、考えてみれば詮《せん》ないことじゃ。……が、だからこそ今われらが織田を見限れば、織田が苦しむのは知れ切っておる。それはたしかじゃ。勝てるいくさに敗け、勝ついくさも長びこう。十兵衛どのはそうさせまいとお考えなのだ」 「おのれの立身、栄達のみを考えればそれでよい里者は気が楽でござるな」  猪右衛門の言い方は光秀に同情するようであった。 「猪右衛門はどうする」 「判りませぬ。ただ今までどおりやるのみでござろうな。光秀どのが織田を扶《たす》けるなら、この猪右衛門も木下を扶けて織田の天下招来に力を貸すまででござる」  随風は二人の若者に顔を向けた。 「藤右衛門は……」 「手前は宮大工でござれば」  中井藤右衛門はそう言って一番年下の与右衛門を見た。 「俺も織田につきたい。しかし俺の親はまるであほうじゃ。はじめは武田信虎についた。そして今は浅井方……世の中のことがまるで見えておらぬ。このいくさ、きっと織田が勝つ。あのむごいやりようを見てもわかろう」  与右衛門はののしるように言った。 「ほう。与右衛門もやはり勝つほうが好きか」  随風に言われ、与右衛門は強くかぶりを振った。 「織田はひえを焼いたかたき……だが強うござる。いくさをなくすには強い者をより強うさせるのが早道と考えます。織田に天下をとらす、そのあとでもっとよい者にゆずらせるのが一番……」  与右衛門はそう言って少し得意そうな表情になった。 「器用なことを言う」  藤右衛門がわらった。 「毒を使うのじゃ」  与右衛門はむきになった。「いくさをせず、大将を一人だけ殺す」 「あとつぎでいくさが起ろう」  猪右衛門が言い与右衛門が抛《ほう》り出すように答える。 「うまい始末は随風さまたちがしてくれよう」  湖から吹いてくる風に秋の気配がしていた。     三  随風の兄に当る明智光秀は、信長をたくみに操《あやつ》りとおしているようであった。その証拠に、光秀は叡山焼打の直後、信長から坂本築城の命を受けていた。叡山の麓《ふもと》に城を築き、旧叡山領と滋賀一郡を与えられたのである。信長の寵臣《ちようしん》木下藤吉郎でさえ横手城主という、いわば対浅井前線司令官なのであるから、光秀の得た十万余石の所領は織田家中にあってまさに破格の待遇である。 「なんとも面目ないことじゃ」  随風の訪問を受けた光秀は、そう言って唇を噛《か》んだ。信長の行動を制御することに失敗し、叡山を焼いてしまったのを自責しているようであった。 「十兵衛どのらしゅうもない」  随風はそれを励ますように軽く笑って見せた。二人の背景下には坂本の浜があって、焼け落ちた里坊から、足軽たちが築城用材を続々と運んで積みあげていた。 「いや、この責《せ》めは儂《わし》一人にある。権爺も飛稚《とびわか》も焼け死んだというではないか」  すると随風は浜のほうを見やりながら、さり気ない様子で答えた。 「権爺のむくろは飛地蔵にござったが、どうやら飛稚には空《から》ワタリいたしたらしい……」 「空ワタリ……」  光秀は鸚鵡《おうむ》がえしに言い、暗然とした面持ちになる。  ヒは各地の産霊山《むすびのやま》にある三種の神器を用いてテレポートできる特殊な体質を持っていた。だが念力で一瞬のうちに遠隔地へ移動する場合、念者は次の行先きをよく理解し、記憶にとどめていなければならなかった。行先きの詳細《しようさい》を知らず無理にテレポートすれば、空ワタリと称する恐ろしい結果が待ちうけている。同一次元ではなく、異次元におちこんで二度とこの世界へは戻れないのである。 「おそらく、芯《しん》の山を念じたのでござろう」  随風は言った。芯の山とは各地に点在するすべての産霊山の上位にある、究極的な産霊山であった。ヒはその芯の山の所在を求めて神代の頃から山野をへめぐって来た。芯の山の所在はその時代により、筑紫《つくし》とされ、日向《ひゆうが》とされ、出雲《いずも》とされ、大和《やまと》とされて来た。しかしそのことごとくが芯の山ではなかった。  生きとし生けるものの明日への願いが凝って白銀《しろがね》の矢となり、各地の産霊山にとぶ。各地の産霊山はその願いを集めて芯の山に送り、そこで明日が定められる。神武以来、いやそのはるか以前から、人々は芯の山に直接白銀の矢を奉《まつ》って明日をおのれの意の儘《まま》に迎えたいと考えて来たのだ。産霊山の存在は次第に秘事となり、遂には皇室のみに伝わる大秘事となった。各時代の帝《みかど》は芯の山とおぼしきあたりに郡を定め、明日への願いを奉って来た。しかし、芯の産霊山は結局見つからなかった。皇室は平城京以後芯の山を求めてむなしい遷都《せんと》をくりかえすことをやめ、それは同時にヒの目的をも否定することになっている。  だが飛稚はいまわのきわにその伝説の芯の山を信じてワタリを試みたのである。その行動がいま、光秀と随風の二人のヒにひとつの感動をもたらしているらしい。 「儂とて芯の山が欲しい」  光秀は力なく言った。ヒに武力がない以上、里者の勇者をもりたてて乱れに乱れた世をたて直し、泰平の世をもたらすのがヒの最も現実的な方法であると信じている光秀も、そのためにかつぎあげた織田信長が、日一日と怪物化し、破壊をほしいままにしているのを見ては、往古に戻って芯の山発見に努めるほうがどれほど気が安まるかと思うのであろう。  随風にもその気持はよく判っている。だが神代から探《さが》し求めて遂に発見できぬ芯の山が、いま急に都合よく探し出せようとも思えないのだ。 「ヒは神代の昔より天下《あめのした》の泰平《たいらぎ》を求めてこそヒでござった。飛鹿毛、猿飛の二人が六所口《ろくしよぐち》近くのヒの宿の者どもを率い、東国に芯の山を求めて今なお働いております。したがそれはそれとしてこの乱世を鎮《しず》めるためには、いま十兵衛どののお働きが要りますのじゃ」 「それは判っておる。儂はヒとして、決してつとめをなげすてはせぬつもりじゃ」 「十兵衛どのがいちばん辛い役をひきあてておられる……が、やらねばなりませぬ。東では甲斐《かい》の武田が相模《さがみ》の北条と和を講じ、さらに安房《あわ》の里見、常陸《ひたち》の佐竹とも手を結んだ模様でござる。そのうえついさき頃は浅井、朝倉にも兵を貸すことを約しており、越前《えちぜん》、越中《えつちゆう》、加賀《かが》三国の一向《いつこう》宗徒が越後《えちご》の上杉にはむこうてござる。信玄めは顕如上人の妹婿《いもうとむこ》に当り、北陸の一向宗徒は武田の手で操られておるのは明らか……さらに伊勢《いせ》の北畠も家臣を甲斐の府中に送って密議を凝《こ》らしたとか。つまりは武田が上洛《じようらく》の挙に出る前触れでござろう」  光秀は深刻な顔でそれを聞いていた。 「ヒの長《おさ》の報《し》らせであれば逐一まことであろう。武田に上杉の動きが封じ得れば、必ず上洛することは察しておったが……少し早い。早すぎるぞ随風」 「織田は今川上洛軍以来の賭《か》けに追込まれましょう。信長は天下布武の旗じるしのために叡山を火にしたのでござろうが、武田が来るとなればむしろ上策でござったのう。ここに患《わずら》いを待っておれば、賭けも意の儘にはならなんだであろうし」  随風は無惨な山容に変った叡山を仰いで嘆息した。 「四面楚歌《しめんそか》とはこのことか」  光秀は湖の向うを眺《なが》めやってつぶやいた。その東から、精強をもって鳴る武田軍団の馬蹄《ばてい》の音が近づいているのだ。「摂津《せつつ》、熊野《くまの》、伊勢、近江《おうみ》、越前……織田は武田を東に迎え敵にかこまれよう」 「恐らく」  随風は冷淡に言った。「それならばあの痴《し》れ者の三好、松永とて、どう動くやら」 「将軍はしきりに毛利へも使者を送っているそうな」 「信長の賭けはヒの賭けとひとつでござる。万一武田を追い戻せば、織田の天下はかたまりましょう」 「そうありたいものじゃ。……ヒの長《おさ》はどういたすつもりじゃ」  光秀は随風に訊ねた。里人の婦《おんな》と任意に情を交し児を産ますヒの俗にあって、第一子を得るのはきわめて若年のうちである。したがって一族の長のような地位は、末子相続という古風を守っている。もし長子が継げば、長は先任者とほぼ似たような年まわりとなり、長としての経験を長く積まぬ内に次々と交代せねばならない。随風は光秀より八歳下であった。 「織田を守るにはまず三河《みかわ》を助けねばなりますまい」 「武田勢が三河、遠江《とうとうみ》へ攻め入れば、徳川などひとたまりもあるまい」  光秀が案じ顔で言うと随風はニヤリと凄味《すごみ》のある笑い方をして両掌を組み、八指を立てて指頭を合せた。 「御鏡《みかがみ》と依玉《よりたま》で祈り伏せましょう」  随風は遠隔精神感応《テレパシー》を用いる気であった。     四  信玄は当代無双の戦略家であった。元亀《げんき》二年の早春から梅雨の頃にかけ、徳川に対して得意の啄木鳥《きつつき》戦術をしかけていた。啄木鳥は樹幹の虫を穴の裏からつつき、虫を驚かせて這《は》い出させるという。……まず遠江東部の高天神を擬攻し、横に長い徳川領の弱点を衝いてひそかに領外に兵を西走させ、四月には急に三河へ侵入して足助《あすけ》、浅賀井、大沼、田代などの諸城を陥し、徳川勢を東奔西走させていた。  信長が叡山を焼いてからほぼ一年後、信玄はすべての準備が整ったと見て、その先勢を西へ発進させた。  その頃、ヒの長《おさ》随風はどこからともなく、武蔵《むさし》の府中……六所口へわたって来ていた。  このあたり、八王子《はちおうじ》から府中にかけて、西から東へ細長い帯状の聖域の存在していることが、芯の山を求めて東へ移動するヒによって、早くから知られていた。  だが山はない。関東平野の西端に当るその地域は、だからヒにとっては異例の産霊《むすび》の場所であった。   幸魂《さきみたま》 奇魂《くしみたま》   雲傳《くもつた》ふ 白銀《しろかね》の矢奉《やまつ》れ   東《ひむかし》の 靈山《むすひのやま》の 上《へ》に奉《まつ》れ   百《ももの》 穀《たなつもの》 成《な》る   家給《いへつ》く 日嗣《ひつく》   天下太平《あめのしたたひらき》なむ  ヒが聖歌として伝承する古謡に、産霊山《むすびのやま》の上に白銀の矢を奉れとある以上、ヒは早くからこの地帯が芯の山ではあり得ないことを覚っていた。しかし規模は大きい。産霊《むすび》の場所とは、どの場所も此処《ここ》と一点をさし示せるようなものではない。或る漠然《ばくぜん》とした大きさを有し、白銀の矢となった生きとし生けるものの祈念が、非常にあいまいな形でそこに吸い込まれ、消失する地域なのである。ただその大きさは、例の依玉《よりたま》、伊吹《いぶき》、御鏡《みかがみ》の三種の神器で構成されるテレポーテーションのための力場……すなわち神籬《ひもろぎ》が、ヒの特殊な念力によって作動するかどうかで調べることができる。たとえばヒの養育地であった比叡《ひえ》の山塊は、全山どこででも神籬が作動した。したがって三種の神器を安置する位置はどこでもよいのであるが、パラボラアンテナ風の御鏡をめあてにテレポートして来る者は、その辺りの状況をまざまざと脳裏に再現せねばならず、その為神器の位置を一定にして置く必要があったのである。  何者とも知れぬ太古の人が、各地の産霊の力によって作動しうる場所へ神器を配したのち、人々はその秘密を知らぬまま、聖地として崇《あが》めて来た。そこにある霊異な現象だけは知っていたのであろう。  やがてその霊異な現象も時代に流されて忘れ去られたが、聖地としてのおそれだけは根強く残っていた。神が具象化として求められる時が到るとそこには社《やしろ》や祠《ほこら》がまつられ、仏教が渡来するとあるものは寺に変った。  武蔵国西部の産霊地帯には、大国魂神《おおくにたまのかみ》を祭る大国魂神社と、本地垂迹説《ほんじすいじやくせつ》による八王子権現が置かれている。人々に先行して東へ移ったヒは、この長大な聖地を知って拠点となし、里者化したあとも協同体を形成していた。  人々は八王子と六所口の中間……聖域の中央部に作られたヒの集落をヒの宿と呼ぶ、それがいつの間にか日野宿という地名に変っている。  そのヒの宿はいま、宗主随風を迎えて緊張していた。信濃《しなの》の産霊山|諏訪《すわ》大社からは猿飛、常陸《ひたち》の産霊山鹿島大社からは飛鹿毛が飛来している。どちらも多くのヒが半ば忘れかけている本来の目的、芯の山探究に今なお活動を続けている高位のヒなのである。俗化をはじめていたヒの宿の人々の心に祖先の血が甦《よみが》えり、神族の末裔《まつえい》としての誇りが再び燃え立ったようであった。  ヒの宿からヒが続々と六所口に集い、大国魂神社はあたかも祭礼の日のごときにぎわいを見せていた。  随風は神殿に籠《こも》っている。清浄の気に溢《あふ》れる中で、正面に御鏡《みかがみ》と依玉《よりたま》を並べ、座右に伊吹《いぶき》をねかせて置いた随風は、両掌を合せ結印して心気を凝らせた。  水晶球のように見えていた依玉の内部にガス状の渦動《かどう》が生じ、白光が明滅しはじめる。すると凹面鏡になっている御鏡の中央に、猿飛の上半身が立体映像となって浮きだして来た。 「信玄の動きは……」  随風が声に出して言った。  ——まだ甲斐の府中におり申す。手の者の報せではどうやらあさって、十月の朔日《ついたち》に出立《しゆつたつ》いたす模様でござる—— 「このたびの出征は信玄宿願の上洛軍じゃ。今宵か明日の晩、信玄は必ずそこへ参籠《さんろう》して戦勝祈願をいたすはず……ぬかるではないぞ」  ——心得ました—— 「こちらにはヒの者をすでに集めてある。武蔵、相模の神器を十ほど運びこんだ。必ず信玄をそこで倒さねばならぬ」  御鏡の中の猿飛は結印の儘《まま》軽く頭をさげて見せた。随風は印を解き、映像が消える。そのとたん、御鏡と随風の間に忽然《こつぜん》と一人の逞《たくま》しい男の姿が湧《わ》き出した。 「あ、これはご無礼をつかまつった」  男はテレポートして来た飛鹿毛であった。 「よい。それよりも各地の手くばりはおえたか」  飛鹿毛は随風の斜め左に片膝《かたひざ》をつき、頭をさげた。 「葡萄山《ぶどうやま》で信玄を討ちもらしても、あの男は尾張《おわり》へまでも行きつけましょうかどうか」  飛鹿毛は自身満々の微笑を浮べて答えた。     五  浜松《はままつ》にある徳川家康の本堂へ、信長からの伝騎《でんき》が駆けこんでいた。 「岡崎《おかざき》へ戻られたい」  信長は家康にそう伝えた。浜松では武田の進軍をもろに受けることになる。だから元の本営の岡崎へ一旦《いつたん》退けというのだ。  この助言は驚くほど早い時期に来た。信玄が甲府《こうふ》を発進する前なのである。……勿論《もちろん》、信長は光秀を通じて信玄の動きを知っていたのだ。  信長は光秀の異常な程の情報収集能力を信じ切っている。光秀を高く評価するのもその点であるらしい。ただ、それは光秀が以前諸国を遍歴していた頃作りあげた情報網の力だと誤解している。  だが家康は信長のその助言を受けて大いにうろたえていた。当然のことながら、浜松では甲府の動きをそれ程精密には掌握《しようあく》していないのだ。だから後方の信長の助言に、いよいよ武田が東海道《とうかいどう》へ出て来るという事態を、必要以上に大げさに受けとめてしまった。  それに、折角《せつかく》の助言だが、家康には岡崎へ後退するだけのゆとりがすでになくなっている。比較的縁の薄い遠江《とうとうみ》の部下たちは、敗北必至と見て裏切りの気配を示しているのだ。本営を浜松からさげれば、それこそ遠江は武田歓迎の一色に塗りつぶされ、戦わずして敵の手中に奪われることになる。浜松にいて逃げこむべき後方を持ったほうがまだましなくらいであった。  とにかく、浜松の徳川本営は混乱していた。対策らしいものがないのである。一応は越後の上杉とも約を交し、武田の後方を攪乱《かくらん》させて釘《くぎ》づけにする策はとっているが、上杉も今は信濃侵入の挙に出られるだけのゆとりを持っていない。織田の援軍も、信長に対する周囲の状況からして、まずたのみには出来ない有様である。  すべての状況が、上洛《じようらく》の意図から出た名将信玄の入念な謀略によって発生している。それが判るだけに、家康は徳川滅亡をほとんど必至の事態と読んでいるようであった。  だがヒの長《おさ》随風はこの徳川をなんとか救える可能性があると信じ、必敗を覚った家康がその名をとることに執着し、軽挙することを案じていた。  甲府にあって信玄の動きを監視する猿飛から、信玄|参籠《さんろう》が一日後のことであると報《し》らされると、随風は慌《あわた》だしく神籬《ひもろぎ》を組み、浜松へわたった。  徳川本営へ家康をたずねた随風は、大僧正のように、美々しく飾りたてていた。家康とは初対面であるし、困難な合戦を控えて昂《たかぶ》っている武士の中を通り抜け、確実に家康に面会するには、そうしたこけおどしの演出が必要であった。  実際随風は家康に会うのに手間どっていた。必要以上に警戒を厳しくした武士たちが、独断で面会を拒絶しようとしたからであった。随風はやむを得ず、織田の部将近江坂本城城主明智十兵衛光秀の実弟と素性をあかした。  徳川家臣団の中に光秀の顔を見知っている者は大勢いた。随風が光秀の弟と名乗ると、物珍らしそうに数人の武士がやって来て顔をたしかめた。随風は光秀と瓜《うり》ふたつであった。  やがて家康に面会を許された随風は、信玄の甲府出発が十月朔日に予定されていることを報らせ、すぐに人払《ひとばら》いを願った。  同席した重臣たちは、当然のことながらこの人払いを嫌《きら》った。随風が刺客である疑いをぬぐい切れなかったからであろう。信玄は戦う前に勝負を決めてしまう名人であったからだ。だが家康はものうげに随風の人払いに応じた。 「よいわ。どうせ呉《く》れてやる命ならば、僧にやったほうがましじゃ」  家康はそう言って随風と二人になった。随風はそうした家康の態度に自棄《じき》の色を見た。 「このたびのいくさはだいぶむずかしいとごろうじておられますな」  随風は探るように言った。家康はふてくされた子供のように鼻を鳴らした。 「たやすいいくさというものがあれば、死ぬまでに一度してみたいものじゃ」  随風は心の中で苦いものをかみしめた。愚将でないだけに、彼我の優劣を読み切ってしまっている。夢想家でないだけに、万にひとつの奇蹟《きせき》に賭《か》ける気もないらしい。だが人間一生に一度は、あり得ないような夢におのれを賭けてみることも必要なのだ。……この男の算用は間違いなさすぎる。随風はそう思った。 「ご家来衆はさきほど、愚僧を信玄公の刺客とお疑いじゃったような……」  随風は閉め切った障子に当る秋の光を見ながら軽い調子で言った。 「許されい。なにせ相手は底の知れぬ信玄公じゃ。何をなされようやら、われらごときの知るべくもないので」  家康は苦笑してみせた。 「いかにも……」  随風はそれを家康のへりくだりとは受けず、わざと大真面目に瞳を見返して言った。「信長どのが盟友《めいゆう》の徳川家を棄てごろし同然に、援軍も出さず放っておかれるのも、上杉が武田の背後を衝《つ》いて上洛の意図をくじくゆとりを持てぬのも、すべての信玄公の深くこまかな手まわしによるものでござろう。信玄公はすでにいくさの前のいくさに勝った気でおられよう……」 「気ばかりではない。まことすでに勝を手にしておられるのじゃ」 「信玄公の弱味でござるな」  随風はそう言っておかしそうに笑った。 「なぜじゃ。弱味とは」  家康は随風のしかけに乗ったようである。 「陰の手まわしはおのれが天下一と思いこんでおる」  随風は突然言葉づかいを変え、憎々しげに低く言った。ヒの怒りの表現には、常人にない一種異様な凄味《すごみ》がある。 「ご坊はどのような働きをしておられるのか」  ややあって家康は好奇心に煽《あお》られたように口ばやに言った。 「わが兄弟明智光秀が御所深くと昵懇《じつこん》の間柄《あいだがら》であることは既《すで》にご承知のことかと……」 「いかにも。明智殿は細川藤孝殿と並んで義昭将軍をもりたてた室町《むろまち》幕府の功臣じゃ。御所の式法や内情にも明るく、公家《くげ》の間でも仲々の評判とか聞くが」 「信玄はおそらく十月朔日に甲斐の府中に出ることはかないますまい。それはこの随風めが徳川方にまわり申したからでござる」  家康は意表をつかれて沈黙した。一笑に付すべき材料を探しているようであった。随風はすかさず懐中から恭々《うやうや》しく紫の袱紗《ふくさ》づつみをとりだし、膝をすすめてそれを家康の前へさしだした。 「これは……」  家康は少し口ごもりながら、袱紗をひらいた。重々しい白木の板が入っている。幅二寸、長さ一尺二寸。衣冠束帯《いかんそくたい》に身を正《ただ》す時右手に持って容儀《ようぎ》を整える、あの笏《しやく》であった。  笏はもともと備忘用《びぼうよう》に文字を書いた紙を張って持った具である。家康が手にした笏には板に直接文字が記されていた。  上部に忍の一字。下部に御名《ぎよめい》と御璽《ぎよじ》があった。 「う……」  家康は喉音《こうおん》を発して目を剥《む》いた。 「遠く一千年の昔より御所に仕える、われらは勅忍にござる」 「勅忍」 「いかにも」  随風は平然と答えた。 「御所に忍びがあるそうなとは、かすかに聞いた覚えがあった……ご坊がその御所の忍びでおわすか」  家康は語調をあらためて訊ねた。 「大秘事でござれば口外は無用のことにしてくだされ」 「決して……」 「信玄公の弱味とは、この随風ら勅忍が、諸国忍びの宗家として仰がれているのを知らぬことでござる。……家康どの。信玄は必ずわれらが帝の御名にかけて討ちとってくれようほどに、ゆめゆめかなわぬまでも討って出ようなど、短慮《たんりよ》を起されますな」 「…………」  家康は毒気を抜かれ、黙ってうなずくばかりであった。     六  元亀《げんき》三年九月の晦日《みそか》。武田信玄は宿願の上洛軍《じようらくぐん》発進を明日に控え、戦勝祈願の為城を出て甲府《こうふ》東郊の葡萄山《ぶどうやま》に向った。  信玄はかつて信濃《しなの》の善光寺平に火をかけ、金堂、山門、僧坊などを残らず灰にしてしまったが、その後深く悔い、辛《かろ》うじて残った三国伝来の本尊を甲州に迎え、古くからこの辺りの聖地として崇《あが》められていた葡萄山に、信濃と同名の定額山善光寺を建立《こんりゆう》した。いま元亀三年、全盛期を迎えた武田の家運を象徴するように、甲斐《かい》善光寺は本坊三院十五庵八十三坊の威容を完成していたが、本来の開基は斉明《さいめい》天皇の頃の甲斐国司、大仁本大善光であり、そのさきの人々の記憶にもない昔は、ヒが発見した産霊山《むすびのやま》なのであった。  猿飛がそこにひそんで信玄の参籠《さんろう》を待ちうけていた。  武蔵《むさし》六所口の大国魂神社《おおくにたまじんじや》境内には、近くのヒの宿から大勢のヒが動員され、飯が炊《た》かれ、ふんだんに菜が配られて祭りのようなさわぎになっている。  やがて秋の日が西に傾く頃、信玄は多くの家臣と共に甲斐善光寺へのりこんで来た。大国魂神社の神殿に神籬《ひもろぎ》を設けた随風は、遠隔精神感応《テレパシー》によって猿飛からその情報を受けると、飛鹿毛に向って時が来たことを告げた。 「よいか。一人の男の死を願うのじゃぞ」  飛鹿毛は集ったヒに向って叫んだ。新しい筵《むしろ》がのべられ、三、四十人ずつのヒがひとかたまりとなって、据《す》えられた御鏡と依玉に向い坐った。御鏡と依玉は十ばかりあり、広い境内は筵に坐ったヒで埋まった。  信玄は信濃善光寺から移されて来た一光三尊の阿弥陀《あみだ》如来像を前に拝跪《はいき》した。これから明日の払暁まで、そうして戦勝を祈るのである。  ひとつの舟形後光の中に、弥陀、観音、勢至の三尊があらわれたその像は、釈尊在世時すでに 毘《ヴアイ》 舎《シアー》 離《リー》 国の長者の持仏であったと伝えられるだけに、いかにも有難く見えている。  しかし信玄の頭上の天井裏に、ヒの御鏡がひとつ、皿《さら》を伏せたように置かれていて、小さな網袋に入れられた依玉が梁《はり》から釣《つ》りさげられていた。  依玉は伏せた御鏡の裏面の中央凸部のまうしろに釣りさげられ、そのふたつの神器の彼方では、随風が一心に透視を試みていた。  この板の下に信玄の頭がある。……随風はそう念じ、あたかも善光寺本堂の天井裏にいるかのように、下の敵をのぞこうと努めた。  本堂の天井裏では、粗い網袋に入れられた依玉が音もなく白光を明滅させ、固唾《かたず》をのんでうずくまる猿飛の姿を浮きあがらせていた。  六所口のヒの群れは、筵に坐って御鏡に向い念力を凝《こ》らす。神殿の扉《とびら》は左右におしひらかれ、眩《まばゆ》いばかりの灯火の中で祈る随風のうしろ姿が見えている。   幸魂《さきみたま》 奇魂《くしみたま》   雲傳《くもつた》ふ 白銀《しろかね》の矢奉《やまつ》れ   東《ひむかし》の 靈山《むすひのやま》の 上《へ》に奉《まつ》れ   百《ももの》 穀《たなつもの》 成《な》る   家給《いえつ》く 日嗣《ひつく》   天下太平《あめのしたたひらき》なむ  飛鹿毛は朗々と謡いはじめた。ヒに伝わる聖歌はやがて人々の心に忘れかけたヒの心を呼び戻し、往古さながらの倭語《やまとことば》で合唱された。  一人の男の死を願う三、四百人の祈りは、グループごとに置かれた十ばかりの御鏡に吸収され、随風の前にある御鏡に集るのであった。夜が更《ふ》けるにつれてヒの祈念は勢いを増し、暗い境内の御鏡から御鏡へ、白い稲妻のような光のすじが、不規則にとびまわりはじめるのを、飛鹿毛は今更のように驚異のまなざしで眺めていた。  依玉の明滅は里者にも見える。しかし白い稲妻は純粋なヒの血に恵まれた者にしか見えない。そして今大国魂神社の境内にとび交っているのは、ヒの神籬《ひもろぎ》を作動させる同一聖域内に十あまりも置かれた、依玉と御鏡の力場の奇しくも珍らしい白銀の矢であった。それはひとつの物理的実験と言える。従来ヒはこのような神器の用い方をしたことがない。一人の人物を呪殺《じゆさつ》する為に、これ程多くのヒが動員された例などありはしないのだ。ヒは俗界の権力闘争の埒外《らちがい》にいるのが正しいとされて来たからである。しかし平和を求めて自発的に動き出した随風にとって、そのような建て前を言っている余裕はなくなってしまった。信玄が上洛すれば織田は滅んでしまう。そうなれば折角進みはじめた天下統一への道は、再び出発点へ戻ってやり直さねばならない。信玄を上洛させてはならないのである。  随風の前の御鏡に、信玄が籠《こも》る本堂の有様が映りはじめた。その立体映像はともすれば波動しがちで不安定であったが、随風がなおも心気を凝らすと正確な立体映像となって固定した。  すでに随風の息が荒い。脂汗《あぶらあせ》が全身にしたたり、顔面は熱を発して紅潮しきっている。だが彼にはまだ次の段階が残されている。立体映像から心の一部をとき放つと、自由になった心の部分を触手のように伸ばし、背後の御鏡の間に、行くあてもなくとび交っている白銀の矢を招き寄せる。  やがて一条、また一条。随風の背中を透過して、各御鏡からの矢が神殿の御鏡に吸い寄せられて行く。依玉内部のガス渦動《かどう》は、もだえ苦しむ竜王の姿のように激しくねじれ動いている。  それを観察している飛鹿毛の眼には、境内にある十あまりの御鏡から発した白銀の矢が、ぴいんと張った白銀の筋となって随風の御鏡と結ばれてしまうのが見えていた。  甲府の夜空に雲が集っている。雲は妖《あや》しくたれこめ、遂に稲妻を発しはじめた。突如|颶風《つむじかぜ》が発し、樹々が一斉に悲鳴に似た唸りをあげた。善光寺本堂に籠った僧や武田家の武士たちは、呪縛《じゆばく》されたように身じろぎもせずその突然の風音を聞いている。甲府中の人々が得体の知れぬ恐怖に襲われ、牛馬までが啼声《なきごえ》をあげた。  信玄は一光三尊の阿弥陀如来像の前で、次第に前のめりに倒れ伏して行く。  天井裏にひそんだ猿飛の目は、依玉が明滅の限界をこえ、ただ一個の白い発光体となったのを見ていた。  信玄の顔色もそれに劣らず白くなっていた。苦しげに奥歯を鳴らし、やがて喉《のど》の裂けるような音と共に大量の血痰《けつたん》を吐きちらした。四肢が痙攣《けいれん》し、本尊の像に救いを求めるように両手をさしのべると、顔をみずからの血痰の中に埋めて失神した。  六所口の神殿では、随風の姿勢に異常が生じていた。印を結び一心に祈念する彼は、既に常人の意識を喪《うしな》っていたのかも知れない。胡坐《あぐら》して御鏡に対していた彼の五体はいつの間にか一尺ほど宙に浮上し、右に傾きはじめていた。神籬《ひもろぎ》の力場に非常なエネルギーが充満し、この前例のない神器の用い方に危険が伴っていることを示していた。神殿が震動し、遠く八王子からの日野宿、そしてこの武蔵府中に至る家々のすべてが、地震に見まわれたように家鳴りを発している。 「これは……」  飛鹿毛は一人観察者の役を果してその有様を眺《なが》め、ふと自分たちの失敗に思い当った。  白銀の矢は正常な場合必ず東へ向けてとぶ。いま随風らは六所口から甲府に向け、白銀の矢の本来の飛方回に逆らって祈念しているのだ。……異常が起る。飛鹿毛はそう直感したのである。  随風はいま床上二尺から三尺、さらに五尺へと浮きあがっている。境内のヒはそれに気づき、声なき声をあげて動揺した。随風は胡坐したまますでに真横になり、次第《しだい》に頭をさげて遂《つい》に御鏡を宙から真逆様《まつさかさま》に睨《にら》み据えている。  信玄はひくひくと痙攣《けいれん》をくりかえし、意識のないまま再び大量の吐血をした。本堂の僧も家臣らも、それを熱病のような眼でみつめているだけであった。  甲武国境の大菩薩峠《だいぼさつとうげ》のあたりで、二度三度|轟然《ごうぜん》と音をたてて白光が夜空を裂いた。山のけものがすべて奔《はし》り出し、森は鳥たちの奇怪な夜啼にさわがしい。  家々の戸がけたたましく引きあけられ、人々が理由もなく戸外へ走りでて夜空をみあげた。  随風は御鏡の前で宙に浮き、くるくると回転をはじめていた。異変の中心六所口の大国魂神社では、先端のとがったものはすべて、その先きに燐火のような光を宿し、人が指を立てればその指先にまで燐火が宿った。  飛鹿毛は飛稚が空《から》ワタリしてしまったのを思い出し、随風もこのまま放置すればそうなるのではないかとおそれた。  本堂天井裏の猿飛は、依玉の発する色が、次第に赤味を帯びはじめたのに気づいていた。だが、それが異常によるものなのかどうか、彼には判らなかった。ヒの伝承の中に、このような神器の用い方の例がない以上、若い猿飛には判断の下しようがなかったのである。 飛鹿毛は神殿に駆け登った。 「やめい。祈りをやめい」  人々にそう命じながら、彼は回転する随風の体をどう抱きとめようかと迷っていた。その時信玄はかすかに意識をとり戻し、喉につまって息を塞《ふさ》いでいた血痰を吐き出した。天井裏の依玉がみるみる灼熱《しやくねつ》の球となり、ピシッと音をたてて罅《ひび》を生じた。一瞬その裂け目から小さな白煙がのぼり、あっという間に拡散して消えた。依玉を包んで釣りさげていた網袋が焦《こ》げ、依玉は天井裏に伏せた御鏡の凸部に落ちて、乾《かわ》いた音をたて砕け散った。  甲府の颶風がやみ、雲が散って行く。八王子から武蔵府中にかけての家鳴り震動がやみ、逃げ惑うけものたちが脚をとめた。  随風をだきとめた飛鹿毛は、随風の五体の回転の余力で、神殿の隅《すみ》へ随風と一緒にころがって行った。  本堂の僧や武士たちが正気づき、血へどの海に倒れこんだ主君信玄のそばへ駆け寄っていた。     七  信玄発病。  その報《し》らせは家康にも信長にも届いた。 「勅忍……」  その報告を随風からではなく、自分の諜者《ちようじや》から聞いた家康は、そうつぶやいてニヤリとした。 「光秀め、やりおる」  信長は光秀からの使いで家康よりひと足早く聞き、膝《ひざ》を叩《たた》いて笑った。  十月|朔日《ついたち》に予定されていた武田勢の発進は延期となり、病床の信玄をとりまく空気は暗鬱《あんうつ》であった。  が、二日の昼、信玄は意識をとり戻すや否《いな》や翌日の朝全軍を京に向わせよと叫んだ。事前の手配りが細密であっただけに、上洛軍の発進を中止すれば天下に武田への疑念があふれてしまう。  宿痾《しゆくあ》の労咳《ろうがい》に大事をとっただけである。  そういう情報を流した。信玄は極力健康を粧《よそお》って、浅井父子らにもあらためて出陣の挨拶《あいさつ》を送った。そして翌十月の三日。山県昌景の率いる五千の先勢を、信州|伊奈口《いなぐち》から三河へ侵入させ、本隊二万七千の大軍は、遠江犬居の城主天野景貫を先導にして、十月の十日早くも遠江に侵攻した。  十二日、武田の一隊は本隊から分れ磐田郡只来を占領、更に進んで二俣《ふたまた》城に向う。主力は周智郡天方、一宮、飯田の諸城を呆気《あつけ》なく抜き、更に南下して向笠、各輪も陥した。  風林火山の旗は、ヒの懸命の努力にもかかわらず、遠州一国を呑《の》みこむ勢いで浜松に近づいていた。  出会いがしらの一言坂戦、干殺《ひごろし》の策に籠城《ろうじよう》を解いた二俣城。……家康は随風の言葉をすでに信じてはいられなくなっていた。苦しまぎれに信長へ援軍の催促もした。しかし信長は信長で信玄の策どおり、一兵も動かせない苦境に陥ちこんでいる。  随風は武蔵ヒの宿で死の床に臥《ふ》している。  外傷もない。内臓も悪くない。ただ精気を吐き尽くして命が細ったのである。 「飛鹿毛よ、猿飛よ。これでは死んでも死に切れぬぞ」  随風は悲痛な声で言った。「信玄ごとき一介の里者に、ヒの長《おさ》が敗れたことになる」  飛鹿毛も猿飛も、随風のその無念さはよく判っていた。ヒは天皇家の上位にある神の末裔《まつえい》である。しかも神の血の霊異をおのが体内に留め、常人の及ばぬ奇蹟《きせき》を行なえる身であった。  随風は再び昏睡《こんすい》状態に陥って行く。 「ヒが里者の争いに力をかした為じゃ」  飛鹿毛が言った。 「じゃと申して、芯の山をたずねておれば、あと何百年この戦国がうち続くことか」  猿飛は飛鹿毛をなじるように言った。 「随風さまや十兵衛さまの言われる所はたしかに正しいじゃろう。したが猿飛、ヒにはヒの掟《おきて》があったであろうが」 「その掟が今の世に合わぬから、ヒは滅びようとしておるのだ」  猿飛は頬《ほお》をふくらませている。 「腹をたてずともよい。俺《おれ》も戦国は嫌《きら》いじゃ。悲しすぎる」  飛鹿毛は年長らしく、落着いて言った。「ヒの言い伝えにもあるではないか。ヒの力をあやまって用いればネが生ずるとな」 「ネ……」  猿飛は不意を衝《つ》かれ、一瞬|呆然《ぼうぜん》とした。 「そう、ネじゃ」  ネに関して具体的な説明はし難い。それは一種|漠然《ばくぜん》とした凶事のことであるが、さりとて天変地異のたぐいでもない。  それはヒの内部のみに通用するモラルのような事柄に通じていた。  ヒは常に天地間の秩序の為にあるという観念がまずあって、ヒが万一その正しい存在理由の範囲を逸脱《いつだつ》した時、ネと称する凶事が出来るのだ。それは悪のむくいというものでもない。ヒは元来みずから悪を犯せる存在ではないと信じている。とすれば、ネはヒがなした行為によって生ずる、所期の目的以外の不測の出来事ということになろうか。  ただその不測の出来事には、何やらまがまがしいものがまつわっていて、予期せぬ好事はネとは言わない。多分ネは根の観念に通じ、冥界《めいかい》をさす根之国《ねのくに》のネなのであろう。神の子の清浄さに対する、黄泉《よみ》の国の穢《けが》れとでも言ったらよかろうか。  ヒ以外の里者たちも、根之国、黄泉の国といった冥界を悪とは考えていない。穢れと悪とは異るのである。同時に神域の清浄さについても、それを善と直接結びつけはしない。神は善をすら超えた、ひたすら清浄な存在であり、穢れは悪のように償わなくても手段によって祓《はら》い浄《きよ》めることができる。  本来この国土にあった観念を、ヒは純粋に継承している。ヒも本来日や火を意味し、ひたすら清浄な存在という観念なのである。ヒやネの意味が判りにくくなったのは、外来の仏教がこの国土に定着してからのことである。悪を犯し罪を得て地獄へ……この一見理論的な筋道も、ヒやネを基《もと》として生きるこの国の人々の間では、それが発生した土地の人々ほど直截《ちよくせつ》には受けとられていない。足して二で割ったように、悪にも罪にも地獄にも、穢れの観念がしのび入り、従ってたやすく浄めうるかのようなあいまいさがある。  ともあれいま飛鹿毛は随風の病状をネではないかと感じている。ヒの清浄さが、織田信長擁立という俗界への介入で穢れたのである。介入して穢れを来さないのは、ひとり天皇家の存続のみであった。 「ネならば祓わねばならぬぞ」  猿飛はそう言った。祓い浄めればネは消える。仮りに随風がネに襲われて死んだとしても、肉体が自然の大地に戻れば、祖霊になるのみで地獄に堕ちることも迷うこともあり得ない。つまり人間は自然の諸要素が凝って生じ、自然の諸要素に還元して行くかりそめの存在でしかない。来世がなくとも死は恐れるものではないし、執着する程生が稀有《けう》のものでもないのである。谺《こだま》や川のせせらぎにも生《あれ》があり、人間はそれら生《あれ》の祈りの部分として、自然の中を動きまわっている。祈るものであるからこそ、浄く純粋であるべきで、穢れは祓わねばならない。  猿飛が祓うことを言ったのは、だから随風の死を回避させるためではない。……このような思考をするだけでも、ヒは元亀の時代相とはかけ離れた存在だったのである。     八  真夜中。  ヒの一軒の家からまだ灯りが洩《も》れている。雪が風に舞い、板戸がガタガタと鳴っている。  粗末な板敷きの間に円座を置いて随風が坐っている。当然その前には飛鹿毛と猿飛。 「ネではない」  随風はかすれた声で断言した。「ネとは動きじゃ、里者の世にヒの力が加わりすぎたとき、時として生ずる世の動きじゃ。だれの身にもせよ、一身にかかわることではない」  飛鹿毛も猿飛もかしこまって聞いている。「それよりも、信玄めまだ生きのびておるとはのう」  随風はそう言って嘆息した。 「やがて死にましょう」  猿飛がなだめるように言う。 「待ってはおれぬ。信玄もあれだけの祈りを受けて息たえだえであろうに。あとひと突き……産霊《むすび》の地に入ってくればすぐにでも息の根をとめようものを」 「信玄の進む道に当分産霊山はございませぬ」  飛鹿毛は何かを考えながら言った。「しかし、この六所口での仕掛けがうまく働きましたからには、今一度ためしてみる術《すべ》がござる」 「なんと。策があると申すか」  随風は厳しい表情で飛鹿毛をみつめた。ヒでなければ、飛鹿毛は随風の嫡男《ちやくなん》ということになる。 「ヒはまこと神の裔《すえ》でござろうな」  飛鹿毛は毅然《きぜん》として随風に言った。 「今更《いまさら》何を申す。神の裔でのうて白銀の矢を見たり、神の道をワタリ歩いたりできようか」 「ならば、産霊《むすび》の地にこもる力を、この五体に分け持っておりはいたしませぬか」  随風は呀《あ》ッと言った。そしてしばらくはわが子の顔をしげしげとみつめている。 「どういうことじゃ」  猿飛がもどかしげに飛鹿毛に言った。 「そうさのう……」  飛鹿毛はいきなりごろりと横になった。天井を向いて体を伸し、両掌を顎《あご》の辺に揃《そろ》え、何かを捧《ささ》げ持つ恰好《かつこう》になった。そして両膝を揃えて立てる。 「顔の上へ御鏡《みかがみ》を捧げる。依玉《よりたま》は膝の上じゃ。この俺がなま身《み》の産霊山になる」 「こうか」  猿飛は別間へとんで行き、御鏡と依玉を運んで来ると、それを飛鹿毛の言うとおり体の上へあずけた。 「だめじゃ。依玉がころげ落ちてしまう」 「膝の上に綿でも置くか」  飛鹿毛は起きあがって自分の膝を揃えてみている。 「この前のように網袋に入れて縛ったらよい」  猿飛は瞳を輝かして言った。 「そうじゃな。これなら見晴しのよい所で、遠くから信玄を狙《ねら》いうちできる」 「動いたらどうする。あおむけでは相手の動きは見られぬぞ。それに誰《だれ》が祈るのじゃ。随風さまのようになるぞ」 「なんの。俺と猿飛の二人でやるのよ。信玄めとて甲府でいまわのきわまで行った身じゃ。この前のような大勢の祈りでのうても、よいかも知れぬ。猿飛が祈り、信玄の動きに合せて俺の体を動かしてくれればよい」 「随風さま。いかがでございますか」  猿飛は得意そうに言った。 「台になる飛鹿毛の身が心配じゃ。明日にもこの地を出て、産霊《むすび》の力のない場所で少しためしてみてからにせい」 「時がございませぬ」  飛鹿毛はきっぱりと言った。「一度で信玄が死ぬとは限りますまい。信玄について何日もつけ狙わねばならぬかも知れませぬ」  猿飛はすでに仕度《したく》をはじめていた。  その頃武田の主力は天竜川《てんりゆうがわ》を下り、秋葉街道《あきばかいどう》に出て浜松に向う形を示していた。しかしその一日あとには、進路が西に変っていて、三方《みかた》ケ原《はら》の台地にのぼった。  信玄の容体はあの甲斐善光寺本堂からずっと一進一退であった。随風、光秀がヒの誇りにかけて天下に泰平を招来しようと一族の命運を賭《か》けているなら、信玄もまた一度踏み出した上洛への道を一族の将来を賭《と》して必死の思いで辿《たど》っていたのである。  両者とも、一度はずみ出したおのれの出足に引きかえすもならず、明日への道をつき進んでいるようだ。  飛鹿毛、猿飛の二人も、自身の体を産霊山とする着想に逆に鞭《むち》うたれ、信玄を追ってひた走りに山々をかけめぐる。そしてその第一日目、早くも秋葉街道の中途で信玄をとらえ、飛鹿毛の体を台に猿飛が祈念《きねん》の矢を浴びせかけることに成功したのである。信玄は吐血し、武田勢は浜松城攻めを中止して三方ケ原へ素通りの形となった。  しかし、家康もまたおのれの道をとめようもなくひた走る一人であった。領土を蹂躙《じゆうりん》されたすえ、本拠に籠《こも》る領主の前を戦いも仕かけず素通りしようとする敵に、損得ぬきの怒りを発した。  家康は戦えば敗れるであろうと知っていた。知った上で全軍を三方ケ原に出動させ、一族の死を賭けて敵の挨拶を迫ったのである。  はからずもこれは武田方のおびき出しの形となった。精強な武田勢は、信玄の采配《さいはい》がなくても鎧袖一触《がいしゆういつしよく》徳川勢を蹴《け》散らしたであろう。しかも瀕死《ひんし》に近い信玄が、この時もいつものように健康を粧って采配をふるったのであるから、徳川勢はあっという間に潰走《かいそう》し、三方ケ原の岸通りを、家康は単騎浜松城へ逃げ戻らねばならなかった。 「お見事。徳川殿の勝利でござる」  随風はいつの間にか城内へ入って待ちうけており、蒼《あお》い顔の家康にそう言った。 「なぜじゃ」  家康は憤然として随風につめ寄った。 「信玄は間もなく死にましょう。さすれば今日のお働き、長く天下の語り草となるは必定。判り切った敗けいくさに挑《いど》むのも、時には大勝利にまさるものでござる」  家康は随風の自信たっぷりな言い方に圧倒され、憮然《ぶぜん》として湯漬《ゆづけ》の箸《はし》をとった。     九  三方ケ原の戦いから一か月後。年が明けて元亀四年になっていた。  信玄はなぜか毎日のように血を吐いた。  宿痾《しゆくあ》の労咳《ろうがい》。……彼にそのような持病がなかったことは、武田勢の荷駄《にだ》を引く小者《こもの》までが承知していた。  いったいなぜ……誰もがそう思い、あの出発直前の夜の異変を思いうかべた。  毒。  それは常識であった。信玄の食事は厳重な監視のもとに用意され、何人もが毒味をしてから供された。しかし翌る日信玄はまた血を吐くのであった。 「血を吐く少し前、いつも何やらおぞましい感じに襲われる」  信玄は脇近の者にふとそう述懐した。確実に命が縮まって行く。……信玄はそう感じ取っているようであった。  が、その信玄のはるか彼方《かなた》で、もう一人確実に命を縮めている者がいた。  飛鹿毛である。 「もうよそう」  猿飛は幽鬼のように痩《や》せおとろえた飛鹿毛に言った。もう何回となく口にする言葉であった。 「いやじゃ。まだ信玄は生きておる」  飛鹿毛はそう言い張っていた。六所口で倒れた随風の無念さが、今は飛鹿毛の心身に移っている。猿飛の背に負われ、武田勢を遠見にとらえながら山を移動する時も、彼はその無念さを噛《か》みしめているのだ。  ヒの肉体その物に、産霊山の力場と同じものがありはしないかという考えは、見事に当っていた。依玉と御鏡による祈りの神籬《ひもろぎ》は成立したのである。信玄の像は猿飛の念力によってかんたんに御鏡の中央に浮きあがり、祈念の矢が命中した。  しかしそれは信玄の命を奪う以上に、飛鹿毛の生を消耗させた。彼の黒かった髪にはすでに銀色が混りはじめ、肌《はだ》は荒れ乾いて老爺《ろうや》のそれになっている。目は隈《くま》を生じ、頬《ほお》の肉はげっそりと落ちこんでしまった。 「信玄を。泰平を……」  それはすでに彼の執念である。信玄を飛鹿毛は一瞬たりと憎んだことはない。信玄は単なる標的であった。  天下に泰平をもたらす。それも随風のようには明確に把握《はあく》していない。まだ若い彼にとって、戦国の悲惨はそれ程痛烈なものではなかった。したがって平和な社会ということも、いわば既成の理想であって、彼自身の体内から自然に滲《にじ》み出した夢ではなかった。しかし、一度目標を明白に持った時、彼にとってそれをなしとげること自体が理想となった。目標が意外に遠く、体力の異常な消耗という犠牲を払った時、その理想は突然思っても見なかった気高さで彼の前にそびえ立ったのである。そしてそれに対して悲惨な状況で立ち向って行く時、彼はおのれに酔った。ヒであるという選ばれた者の誇りと、人々の未来の為に死ぬという自己犠牲の行為が、この上もなく甘美な喜びを彼に与えている。  それはひょっとすると、光秀がヒの誇りを棄て、敢《あえ》て信長の一部将になり下っても天下の為に働こうとすることや、家康が死を決して武田勢の前に立ち塞《ふさが》ったことに通じているのかも知れない。人はひとりひとり、おのれの踏み出した第一歩に引きずられて自分の道を走るものなのであろう。  飛鹿毛は遠江《とおとうみ》から三河《みかわ》にかけてを、猿飛に背負われて歩きまわり、春を迎えた。それはもう人間とは言えなかった。猿飛の背にあるのは、重さほぼ五貫余りの老人の彫像であった。ただその像はかすかに身動きし、鏡と玉を置く台になった。  猿飛の中止の申出を拒絶することも、すでに出来なくなっている。  だが、猿飛は黙然と飛鹿毛をかつぎまわっている。悲惨な飛鹿毛と信玄を追って歩いている内に、猿飛もまたおのれの道に踏みだしてしまったのである。それは果して飛鹿毛に対する愛情だったろうか。  共感だったろうか。  いや、むしろミイラ同然となった飛鹿毛になおも体力の消費を要求する、彼自身の悲惨な立場がそうさせているらしい。  信玄を倒す。猿飛もまた目的という不思議に引きずられ、そこに理想を見出したのである。痩せ枯れた飛鹿毛は猿飛にとって道具でしかない。信玄もまた敵ではない。いつの日か信玄を倒す。それが理想であり、歩くめあてであった。  春。温暖な三河を、武田勢は静かに東へ向いはじめた。来た道を逆に辿《たど》るその隊列は、あたかも春風に追われる冬将軍の軍勢のごとく、厳しく、そして物哀しげであったという。  飛猿は信州《しんしゆう》伊奈郡の駒場《こまんば》のあたりまでその隊列を追って行ったとき、いつの間にか飛鹿毛が本当のミイラになってしまったことに気がついた。幾日かは、そのミイラの上に鏡と玉を置いて信玄を狙ったことであった。  信玄も駒場で息たえていた。  春もさかりの四月十二日であった。     一〇  猿飛が信玄を追っている間にも、信長を中心に歴史が動いている。  将軍|足利《あしかが》義昭は信長が自分を天下統一への道具にしたことを覚り、武田が三方《みかた》ケ原《はら》で大勝すると、それみたことかとばかり西近江《おうみ》に出陣して、今堅田《いまかたた》と石山の砦《とりで》によった。  信長は柴田勝家に命じて石山砦を強襲、更に義昭を追ってみずから上洛《じようらく》し、二条第《にじようだい》を囲んだ。義昭は進退に窮して御所に信長との間のとりなしを依頼し、御所は事態の見通しもないまま、義昭の持つ将軍職の権威のみを考えて綸旨《りんじ》を発した。やむなく信長は和解して岐阜《ぎふ》に戻った。  しかし義昭はあくまで信長を除こうと、再び反織田勢力に呼びかけ、愚かにも信玄の死を虚報と解し、二条第に兵を集めた。  光秀にとっても、義昭はすでに平和を攪乱《かくらん》する患部であった。信長の野望と光秀の理想は全く一致していた。光秀は義昭の挙を知ると瞬間にみずから湖をワタリ、軍船を整えて信長に坂本直航をうながした。信長はよろこんで琵琶湖《びわこ》を渡り、ただちに京へ入って二条第を攻めた。義昭は再び窮状を朝廷に訴えたが今度は見棄てられ、宇治《うじ》の槇島《まきのしま》へ脱出はしたものの、とらわれて河内《かわち》の普賢院に送られ、剃髪《ていはつ》して再び僧に戻った。  室町幕府は消滅し、織田の天下が実現したのである。信長は勅命を奉じ、諸国平定の号令をくだすことになった。  折しも改元があって元亀《げんき》四年七月二十八日、年号は天正《てんしよう》元年となった。  光秀はその夏、久しぶりに京で山科言継《やましなときつぐ》卿に面会した。一時宮を辞して気儘《きまま》な暮しをしていた言継卿は、その実ヒに勅忍の宣下を受けさせた朝廷内の実力者で、この前年の元亀三年、権大納言となってかえり咲いていた。 「織田の天下になるのう」  六十四歳になった言継卿は、権大納言らしい威厳をそなえていた。 「まず八分どおり……」  光秀は慇懃《いんぎん》に頭をさげた。随風はヒの長《おさ》として、たとえ言継卿であってもそれなりの立場を保っているが、光秀は早くから言継卿の薫陶《くんとう》を受け、手足のように動いて来た人物である。 「無事改元も成って、御所のにぎわいもぼつぼつ見られそうじゃの」 「早うそうなりたいものでございます」  光秀は御所の人間としての言い方をした。 「十兵衛尉も大名になる」  言継卿はからかうように笑い、光秀は困ったように庭を見た。ヒが里者として成功する。光秀にはそのことが恥かしくさえあった。 「ところで、東大寺の勅封倉に何やらヒにまつわる品があるとか……まことでござろうか」  光秀は話題を変えた。 「あるらしい。西洞院時慶が見たと申しておる」 「どのようなもので……」  光秀がせきこんで訊ねるにおしかぶせるように、言継卿は太い声で詠じはじめた。 「ひむかしの、むすひの山へ雲つたふ、しろかねの矢を、いはへかむぬし」   東《ひむかし》の 靈山《むすひのやま》へ 雲傳《くもつた》ふ    白銀《しろかね》の矢《や》を 祭《いは》へ主《かむぬし》  光秀は眼を半《なか》ばとじ、虚空にその歌を文字にして浮べていた。まさしくそれはヒにまつわるものらしい。ヒに伝わる古謡と一致している。 「この歌を箱書きにした筐《こばこ》があったそうな」 「中は……」 「知らぬ」  言継卿は素気《そつけ》なく言った。「案ずるな、十兵衛尉。実はそのうち、御所は信長にいささか功を酬いてやることになっておる。信長は茶が好きなそうじゃが、まことか」 「はい。茶もでござるが、むしろ茶の用にする珍奇な道具類には殊《こと》の外《ほか》の執心にて」 「なるほどのう、あの男らしい好みじゃ。それではなおさらのこと、正倉院のあれがよかろうな」 「何を信長に賜《たまわ》りますのでござる」 「香木《こうぼく》よ。蘭奢待《らんじやたい》じゃ」  蘭奢待。それは稀代《きたい》の名香とされ、三字の内に東大寺の文字が隠されている神秘的な香木であった。「あの香を信長が下賜される時、そのほうにヒの歌の箱書きをした筐《こばこ》が渡るようはからって置こう」  光秀は心から礼を言った。万一それが芯の山の手がかりであったなら……そう思うと心がふるえた。飛稚、飛鹿毛の二人を悲惨な死に追いやってまで、今日の織田政権を招来させた随風にとって、芯の山の探究は殆《ほと》んど悲願にさえなっているのだ。その品を随風にやりたい。……光秀はそう思った。     一一  信長はいまや破竹の勢いであった。  朝倉義景を自刃《じじん》させ、次いで浅井長政とその父久政を共に自刃させると、その翌年には従三位に叙《じよ》せられ参議となった。  伊勢《いせ》の長島|一揆《いつき》を壊滅し、ついに言継卿と同じ権大納言にのぼって右近衛大将の栄位についた。そして天正二年の三月、言継卿の言ったとおり、名香蘭奢待を下賜《かし》された。勿論《もちろん》光秀も例の筐《こばこ》を賜わり、すぐに随風を招いてその蓋《ふた》をひらいた。  湖から春の香が湧《わ》きたつような坂本城の一室である。光秀の好みは渋く落着いていて、このごろはやりの派手好みはどこにも見当らない。 「箱書きはそう古いものではないらしい」  随風は歌の文字づかいからそう判断して、幾分不満そうに言った。  が、蓋をとり除《の》けたとたん息をのんだ。中にはいつの時代のものとも知れぬひどく古びた亀甲《きつこう》が一枚入っていたのである。  亀卜《きぼく》に用いられたものであることは一目|瞭然《りようぜん》であった。火の跡がありありと残っている。 「はて、難問じゃのう」  光秀はたのしそうであった。謎《なぞ》のかたまりのような亀甲一枚というのが、いかにも産霊山《むすびのやま》の芯《しん》の山にふさわしく思えたのだ。  随風は慎重に亀甲をとりあげ、筐底《きようてい》をあらためた。何もなかった。 「これと芯の山に、本当にかかわりがあろうか」  随風はおもてうら、ためつすがめつしながらそう言った。光に向けてすかして見ようとさえした。 「まあそうせくまい。千年の余もたずねていまだに掴《つか》めぬ芯の山の所在じゃ。このような箱から芯の山のありかを記した紙きれでも、かんたんにころがり出てみい。ヒの神が泣こうぞ」  光秀は上機嫌《じようきげん》である。芯の山の探究の責務はヒの長《おさ》にあって、自分は傍観者だからというのではない。長い苦労のすえ、ひとつひとつ、すべてが解決に近づいているという充実感のせいであった。  だが随風は渋い顔を続けている。 「皆目《かいもく》判らん。光秀どのはそのようにうれし気でござるが、芯の山の所在が判らずば、天下はたいらがぬ」 「なんの。みな少しずつではあっても、まさしく泰平の世に向っているではないか」 「この世に油断は禁物でござるぞ」 「ヒの長よ。なぜそのように急ぐのじゃ。千年の余も……」 「それはまことにそのとおり」  随風は皆まで言わせず、亀甲を筐に戻しながら言った。「じゃがわれら天正のヒには、千年の余もためさなんだことをしてのけており申す。飛稚は言い伝えのみで、まことはいつあったことかも知れぬ空《から》ワタリをしてのけましたぞ。六所口の神籬《ひもろぎ》に四百人ものヒの祈念を凝らさせ申した。飛鹿毛はおのれの体を産霊山として、言い伝えにもない死に方をしたではござらぬか。それに……光秀どのとて、ほれこのような城の主《あるじ》となられ、まれな立身をとげられた」 「皮肉じゃのう、随風」  光秀は年長者の表情になって言った。 「いや……」  随風は強くかぶりを振った。「芯の山へ急ぐのはそのためでござるよ。われらはいま危い瀬戸に立っておるのかも知れ申さぬ」 「まさか」  光秀は失笑した。万事快調である。ゆとりもできた。だが光秀の楽観ぶりは、窓の外にひろがる琵琶湖の春がすみとも関係がありそうであった。それほどうららかな、気のゆるむような日であった。 「これはひとつ光秀どのに苦言を致さねばなるまい」  随風は光秀の気分を損《そこ》ねぬように気をつかい。冗談めかして言った。「六所口で信玄の命を狙い、逆にこの身が細って倒れたとき、枕辺《まくらべ》で亡き飛鹿毛が猿飛にこう申しておりました。これはネが出たのではあるまいかと……」  とたんに光秀の顔色が変った。 「ネ……」 「いかにも。われらは少々里者と交わりすぎたのではござるまいか。いや、それが悪いとは申しませぬ。こうならねばわれらのつとめが果せなんだのでござる。したが、ヒの言いつたえには、このようなときネが生じるとしてあるではござらぬか」  俗界に介入《かいにゆう》しすぎている。それはたしかであった。何よりもまず、信玄を呪殺《じゆさつ》したことが今日の織田の天下を約束したのである。放っておけば七分三分で織田の滅亡の確率が高かったのだ。 「ネか……すっかり忘れておったのう」 「ヒはこの世に在ってこの世にあらざる者でのうてはならぬのかも知れませぬ。それが織田をかつぎ徳川を救い、天下の為とばかりは申せぬ役を果してしもうたのですぞ」 「ネか……」  光秀はまたそう言って唸《うな》った。ネに形はないとされている。つまりヒが介入しすぎた世の中で、それがどう連鎖反応し、次の歴史をどう歪《ゆが》めて行くかである。その動きを予測することは不可能であろう。ヒが踏んだ草の命、蹴った石の行方まで、あらゆるファクターが調べ尽されねば、それらが集積した結果は予測することができないのだ。     一二  だがネのあらわれる気配は、一向にない。  天正三年三月、信長は御所へ栄えをとり戻すため門跡《もんぜき》、廷臣らの借銭、借物をすべて破棄させる徳政令《とくせいれい》を出している。借財に首のまわらなかった御所の人々は肩の荷をおろしてほっとすると同時に、織田信長が結局は救国の忠臣であったと感じた。  右大将は狷介《けんかい》だがよい男である。……信長は上流の信望を集めて行く。それはさらに五月、信玄の遺志を継いだ武田勝頼の来攻を、家康と協力して三河|長篠《ながしの》にうち破ったことで、いっそう高まって行く。御所の親任は信長の部下にまで及び、光秀も惟任《これとう》姓を与えられて日向守となった。この補任はすでに栄誉のみで実質の伴わぬものではあったが、それだけに秀吉の筑前守、塙《はなわ》直政の備中守と並んだとき、惟任光秀の日向守は、いささか言継卿のいたずらであったようである。  信長は俄然《がぜん》文化人としての側面を示しはじめていた。茶を愛し、千宗易《せんのそうえき》らを京都妙覚寺に招いて茶会を催し、天下の珍器に惜《お》しげもなく金銀を費した。醍醐《だいご》三宝院の門跡、義演僧正《ぎえんそうじよう》などは、信長|擁立《ようりつ》のための勅忍宣下を、言継卿から最も早く知らされていた関係もあリ、また堺《さかい》の豪商ともつながりが深かったため、さかんに織田家と文化人たちの間をとりもっていた。  信長はいち早く鉄砲の重要性を認め、堺を通じて武器弾薬の調達をはかっていたので、堺の貿易商たちから海外知識の吸収につとめ、いっそうその鋭敏な時代感覚にみがきをかけて行った。その結果、天正四年五月からはじまった石山攻囲戦が、本願寺門徒衆の頑強な抵抗にあって長びいた時、九鬼嘉隆、滝川一益らに命じて驚くべき巨艦を建造させ、石山本願寺の海上封鎖に用いたりした。  光秀はその巨艦の余《あま》りの評判に、微行《びこう》して木津川《きづがわ》川口へ見物に行った。  鉄艦であった。信長は大艦巨砲の戦艦艦隊を持ったのであった。その発想はこの時すでに光秀らの及ぶべくもない近代性を獲得していたのだ。鉄板装甲を持ち、大鉄砲を無数にのぞかせたその大坂湾上の巨艦を、光秀はただ呆《あき》れかえって眺めた。  天正六年十一月、石山本願寺救援のため、毛利の軍六百余隻が木津浦で信長の戦艦に海戦を挑んだが、信長は堺衆の手で、海外より新兵器である大砲三門をひそかに輸入して、これに搭載《とうさい》させていた。毛利六百の水軍はこの不沈戦艦に散々に撃ち散らされ、二度と挑戦することはなかった。  それはポルトガルの知識であった。どうやら信長には発想を制約する枠《わく》というものがないらしい。彼はしきりに金銀銅の産出を欲し、諸国の鉱山の領有を狙《ねら》ったが、それは富に対する欲求というよりは、統一国家構想のひとつであったらしい。  信長はかつて足利《あしかが》義昭を奉じて入洛《にゆうらく》を果した時、いち早く撰銭令《えりせんれい》を発していた。新将軍をさしおいて撰銭令を発したことが、義昭の対信長感情を損ねた一因になったのであるが、信長の撰銭令の内容を考えた時、義昭の不快がいかに姑息《こそく》であったか判る。  それまでの撰銭令とは、正しくは撰銭禁止令と言うべきものであって、明《みん》銭をはじめ宋《そう》銭、皇朝十二銭、焼銭、欠《かけ》銭など、通用中の雑多な貨幣について、民衆のより好みを禁じ、一律に通用させようとしたものである。  ところが信長の撰銭令は、悪貨の存在を認め、これを否定する方向をうち出していた。つまり、通貨として追放すべき悪貨を定め、部分的に選銭を許した上で、良貨を保護したのである。  信長の狙いは、こうして雑多な通貨を徐々に整理し、統一通貨に切りかえることであったらしい。  御所の人々にも、ヒ一族にも見抜くことができなかった信長のずば抜けた先進性とは、国家統一の窮極的な形を、統一通貨の発行権掌握ということで認識しているらしい点であった。  多分それは堺商人たちの一部では理解されていたであろう。いや、むしろ義演僧正などが茶会にかこつけてさかんにとり持った、商人たちの側からの知恵であったのかも知れない。安土《あずち》に商都を想定した都市計画を施して、最初の城下町を形成したり、大坂湾に鉄甲戦艦を浮かべたりしたのも、案外貿易商人たちの海外知識によるのかも知れなかった。  事実、信長は朝鮮《ちようせん》半島その他に拠点《きよてん》を置くことを考えていた。それは領土拡張というよりは貿易振興のための構想であったろう。この点豊臣秀吉の国家事業は、いろいろ信長の構想を模倣《もほう》しながら、その根本においてどこか理解の欠けたところが見受けられる。黄金を鋳《い》て世界最大の金貨を造ったが、それは諸侯に対する贈答用の域を出ていないし、朝鮮への出兵にいたっては、完全に信長構想の真意を誤解してしまっている。千利休の自殺は、このあたりに原因があったとも考えられなくはない。  しかし、秀吉が信長の思想を継承しそこねたとしても、それを責めるわけには行かない。信長は少くとも三百年早すぎた人物である。天正六年三月十三日、越後の上杉謙信が、生涯《しようがい》の好敵手武田信玄の葬い合戦のような意気込みで上洛をはかった時、随風は飛稚、飛鹿毛の犠牲によって開発した新しい神器の使用法を駆使して、それを未然に倒している。が、随風らヒ一族がいかに超科学的現象を利用できたとしても、それを用いる側の信長のような先進性がない以上、操るのはむしろ信長であり、ヒは完全に彼の巨大さに圧倒され、その体制内に置かれるよりほかはなかった。  家康にしたところで、信長の活動を古い視点から見ているだけであった。随風らヒ一族は、そのような古い家康に一種の安心感をもって接した。家康もまた三方ケ原以来、ヒの力の有益なことを理解し、両者は急速に接近して行った。そうした中でひとり光秀は信長の部将として時代の表面に顔をのぞかせていた。     一三  みなそれぞれに幸福そうであった。少くとも光秀にはそう見えていた。……光秀自身が満ち足りていたからであろうか。 「小四郎もよいかげんに妻をめとったらどうじゃ」  安土に降りしきる五月の雨音を聞きながら、光秀は、かたわらにひかえる石川小四郎に言った。光秀ももう五十の坂を越し、頭がうすく光りはじめている。十数年前、飛稚《とびわか》と共に泥をはねあげて岐阜《ぎふ》から京へ向う足利義昭の直衛部隊に加わっていた石川小四郎も、はや三十六歳の屈強な分別盛《ふんべつざか》りの顔になっている。  光秀の家来は、その頃小四郎と飛稚の二人だけであった。  小四郎はヒではない。尾張《おわり》の里者の子であった。……人の世の縁《えにし》とは不思議なものだ。光秀は今更のようにそう感じていた。ヒの自分に最後までつき従っているのが里者の小四郎なのである。彼はまるで昔のヒのように、かたくなに独身を守っている。そして逆にヒが妻をめとり子をもうけ、しかも人なみ以上に家を栄えさせているのだ。  光秀自身二人の男児と三人の女児をつくって、それなりに幸福な家庭生活を営んでいた。三人の娘はみな美貌《びぼう》で、それぞれしかるべき家へ嫁《とつ》いでいた。長男の太郎五郎は十三歳、その下に乙寿丸という弟もいる。近頃《ちかごろ》光秀は自分がヒであることを時々忘れそうになる。  随風はあれ以来徳川家康との交わりを深め、主として東国の各地を歩いて、あいかわらず芯の山の発見につとめている。天正二年の春、言継卿の尽力で手に入れた例の正倉院の筐《こばこ》にあった亀甲《きつこう》の謎《なぞ》を、随風は見事に解《と》いたと言って一度得意そうにわたって来た。火にかけられた亀甲のひびわれの線は、芯の山のあたりを示す地形図になっているのだと言う。……光秀はそれを信ずるでもなく信じないでもなく、ただうれしそうに聞いただけであった。  ヒの長《おさ》として、随風は芯の山を探《さが》していられることが幸福なのである。光秀にとって亀甲の謎よりは随風がそれで一層しあわせに生きられることの方がうれしかった。  羽柴秀吉の部将として、いま中国遠征軍に加わっている猪《い》右衛門《えもん》も、ヒとしてよりは里者となって幸福を掴《つか》んだ一人であろう。小四郎の妹千代をめとり、去年二月に信長が催した京都御馬揃えでは、山内猪右衛門尉一豊一世一代の名誉をうけて天下に名を知られていた。彼の曳《ひ》いた馬が東国第一馬という讃辞《さんじ》を受け、その馬の代金が妻の千代女の内助によったことは、当代の美談として喧伝《けんでん》されている。その持参金は兄の小四郎を通じて光秀の手もとから出たものであった。……山内一豊にひらけた出世の道に自分の存在が役立っていることも、光秀にとってはしみじみとした幸福感になっている。  浅井家滅亡で行く場を失ったあの藤堂の与《よ》右衛門《えもん》も、山内一豊の手づるで今は秀吉の弟秀長につき、名も高虎とあらためて働いている。これでよいのだ。……光秀は心からそう思っている。ただひとつ残念なのは、さきに生れた三人が娘ばかりで、長男の太郎五郎がまだ十三の幼なさであることだ。そうでなければ今ごろはそろそろ家督を倅《せがれ》に譲り、もとのヒに戻って随風らと気儘《きまま》に産霊山《むすびのやま》をへめぐってみたいのである。  一度そんなようなことを信長に洩《も》らすと、信長は笑《え》みを含んだ目で睨《にら》み、「そうはさせぬぞ」と言った。それは信長の光秀に対する親任の深さをあらわしていた。現に今も、秀吉は中国路にあって高松の城を水攻めに囲んでおり、滝川一益は関東|厩橋《うまやばし》、柴田は北陸にあった。織田信孝、丹羽長秀らは四国征伐の大軍を率いて摂津の浜に風待ちをしているということであった。  つまり、信長|麾下《きか》の各将はそれぞれ遠くに出払っていて、中央を守るのは光秀の兵だけになっている。秀吉がいかに小まめに立ちはたらこうと、光秀ほどの親任は受けていないということである。そしていま安土城には、信長の盟友徳川家康が客として訪ねて来ている、勿論そのような賓客《ひんかく》をもてなすのは、光秀の役でなければならなかった。随風を通じて気心の知れている家康の接待役は、光秀にとってかえって気の安まるたのしい仕事であった。  光秀はつと立ちあがり、窓をひらいて外を眺めた。降りしきる五月雨《さみだれ》の中に、落し積みに積んだ石垣《いしがき》が見えている。湖畔の湿地に朱鷺《とき》が数羽、雨にうたれながら時折り泥を突いていた。その淡紅色の羽色を見ながら、光秀はふと、俺もときになり切るか……と思った。地位が昇るにつれ、出自が重要になって来る。ヒだとは言いようもなく、彼はいつしか自分が清和源氏土岐下野守頼兼の後裔《こうえい》であると名乗るようになっていた。ヒを捨てて里者の幸福に浸《ひた》るのも悪くない。そう思った。 「時は今、あめが下しる、五月哉」  彼はのんびりと声を出して詠んだ。  天正十年五月十五日であった。     一四  そのすぐあと、光秀は信長に呼ばれた。  光秀を呼び寄せた信長は妙なところにいた。人質|曲輪《くるわ》であった。入口に屈強な兵を二人置き、陰気でひとけのないその曲輪の一番奥に、ポツンと一人で坐《すわ》っていた。 「光秀参上つかまつりました」  すると信長はついぞ見せたことのない温顔をほころばせ、 「遠い。これへ寄るがよい」  と手まねきをした。 「そちはすぐ亀山へ戻って兵を整えよ」 「敵はいずれでござりましょう」  すると信長はつるりと顎《あご》を撫《な》でた。 「これ、余計なことを言わすでない」  そう言って照れたような笑い方になった。 「…………」  光秀は黙って信長をみつめた。 「そのほうが口ぐせの天下統一の仕あげじゃ。よう働いてくれたのう。じゃが、こたびはただくつろいで兵を歩ますだけでよかろう。このあとはもう、そちのいやがるいくさも、そう残ってはおるまい」 「お言葉ながら、それがしがいくさをいとうたと仰せられますか」  信長は寛大に左手を振った。 「判っておる、判っておる」 「兵をどのように整えましょう。兵糧のことは……」  すると信長はかつての悪童時代をしのばせる表情になって、 「そうさの。猿のあと押しに行くふりでもしたらよかろう」  と答えた。  家康を……。それが光秀の直感であった。  安土《あずち》に招いた東海の雄を屠《ほふ》ってしまう。それはいかにも信長らしいやり方に思えた。血で血を洗い勝ち抜いて来たこの人物の最後の仕あげが家康なのである。伯父《おじ》に当る織田信光と謀って、尾張《おわり》上半国の守護代織田彦五郎を殺した。そのあと協力した伯父をも殺し、禍根《かこん》を未然に断っている、弟の織田信行も殺し尾張の下四郡を手に入れた。妹のお市が嫁《とつ》いだ浅井長政も信長に殺されている。  叡山でも百済寺《くだらでら》でも本願寺でも、禍根を断つためには敢て悪鬼になれる男であった。  随風には報《し》らせてやらねばならぬだろう。またむずかしい立場に追いこまれる……光秀はそう思ってうんざりした。 「やがて血を見るいくさはなくなろう。さて、そうなればあの猿めもとんと能なし猿じゃ。あれには天下を統《す》べる才覚はないでのう。これからはそのほうじゃ。筑前に儂《わし》が天下の銭をひとつにする気じゃと教えたそうなが、それが判るのは光秀だけよ……」  信長は珍らしく能弁になって彼の構想を語りはじめた。貨幣制度、土地制度、身分制度……それらを信長はいちいちヨーロッパの例をあげて説明した。信長はいつの間にか、驚くほど海外事情通になっており、諸帝国興亡の歴史に通じていた。  その日、雨の中を光秀は目覚める思いで坂本城へ向った。信長の考えている新しい国家体制は光秀にとって新鮮きわまりないものであった。あれでは全《まつた》く新しい天下になってしまう……そう思いながらも、中央集権のすっきりとした機構が目に見えるようでたのもしかった。まだ老いてはいかん。これから新しい国を作るのだ。……光秀の血に新しいエネルギーがつぎこまれたようであった。  五月十七日、一旦《いつたん》坂本城へ戻った光秀は、すぐ使いを発して丹波《たんば》亀山城に兵を集めさせ、信長の指示どおり秀吉の高松城攻めを支援する風を粧った。そして自分は二十六日、ゆっくりと亀山城へ入った。追って届いた信長の指令では、六月三日京にのぼれと言うことであった。  が、しかし。  光秀は結局ヒであった。ヒであったがために、ネを見たのである。  ネは信長の姿となって動いた。永禄《えいろく》十一年六月、ヒに対して正親町《おおぎまち》天皇の勅忍宣下があって以釆、神の末裔《まつえい》が俗界に介入して積り積ったネの動きは、信長に対し堺《さかい》、博多《はかた》の貿易商人たちを接近させ、更にはキリスト宣教師らを介して海外知識を移植させたのである。  光秀がそれに気づいたのは、迂悶《うかつ》にも五月二十八日、愛宕山《あたごやま》に参籠《さんろう》し、西ノ坊で連歌師里村紹巴らと百韻の連歌を興行した時のことであった。 「徳川殿はゆるゆると堺見物なそうな」  明け方、何気なく言った紹巴のひとことが光秀の耳に突きささった。 「なんと申したッ」  彼は我にもなく叫んだ。一座はしんと白け、やがて里村紹巴がおそるおそる言った。 「徳川殿は長谷川秀一殿のご案内にて、安土から京、堺の見物に出られてございます。おつきの侍衆もほんのわずかばかりにて、右府さまの天下になりましてよりは、京のあたりもとんとのどかになったものと、それは大した評判でございます」  家康が安土を出た。……いったい信長は、めあての家康を解《と》き放《はな》ってどうしようというのか。光秀には見当もつかぬ思いであった。  ところがその夜、信長の家康襲殺計画を報らせてあった随風が、東からワタって来たらしく、光秀をたずね息せき切って愛宕の山へかけ登って来た。  秀吉救援に見せかけるための小荷駄隊は予定どおり発進してしまったあとである。 「いったいどうしたということか、光秀どの」  随風は叱《しか》りつけるように言った。「家康どのは梅雪入道とのんびり堺へ向われたぞ。右府の襲殺など、気配もないではないか」  光秀はううたえた。たしかにこの耳で……そこまで思い、呀《あ》っとのけぞった。家康を殺《や》るとは、信長はひとことも言っていないのである。 「し……して安土の信長公は」  光秀は逆に随風に訊ねた。 「知らぬ」  随風は光秀の驚きように異変を察知して緊張していた。 「済まぬ。ワタって見て来れ」 「安土の近くに御鏡はない。安土へはワタれぬが……」  随風はしばらく思案し、やがて黙って出て行った。その背中へ光秀が大声で言った。 「儂は城へ戻っておる」  愛宕山では手も足も出ない。光秀は大急ぎで山を下り、亀山城へ戻った。  そして信長の野心の全貌《ぜんぼう》が判ったときは、すでに六月の一日になっていた。  京には兵約二千を従えて、十日も前から信長の長男織田信忠が入っており、室町薬師寺町の妙覚寺に籠《こも》っていたのである。そして信長は蒲生賢秀《がもうかたひで》らに留守を預け、わずか数十名を従えて安土を出ると、電光石火《でんこうせつか》の素早さで四条西洞院の本能寺に入ったというではないか。 「光秀どのの一万三千が中国路への援軍でないとすれば、いったいその兵はどこに用いるつもりなのでござろう」  状況を調べて戻った随風が言った。しかし光秀はしばらく答えることができなかった。  西洋諸国の王の絵姿が光秀の目前に去来していた。倒し、倒され、血よりは力で王がきまる世界がその背後にあるのだ。信長はその世界を知ってしまった……。 「ネじゃッ」  光秀は叫んだ。「とうとうネが動いたのじゃ。信長は京を焼く気じゃ。帝《みかど》を殺し公家を殺し、新しい世をひらくつもりじゃ」  随風は身じろぎもしなかった。     一五  敵は本能寺にあり。  光秀はごく自然にそう決断した。ヒとしてそれ以外の解答はあり得なかった。随風も全く同じだった。  光秀は男泣きに泣いた。  ヒには美しい理想があった。万人みな泰平に安んじられる世界の建設という理想であった。光秀も随風も、多くの犠牲を払い、ヒとしてはあるまじき修羅《しゆら》となって、そのために戦国の世を今日まで押し渡って来たのだ。その理想に今一歩というとき、彼らが基礎を作り、押しあげて来た肝心《かんじん》の織田信長という新しい平和の中心が、ネとなってすべてを否定し去ったのである。  信長をこの手で倒すことは今の情勢ではそうむずかしいことではない。一万三千の光秀軍対二千余の織田勢なのである。しかし、それはみずからの苦渋に満ちた歳月を葬ることであった。乱世がふたたび舞い戻るであろう。  光秀は信長の言うより一日早く、一万三千の兵を京へ向けた。老坂《おいのさか》より沓掛《くつかけ》に出、桂川《かつらがわ》を渡って六月二日の払暁《ふつぎよう》本能寺へ殺到した。  東京大学資料編纂所に保存されている山科言継《やましなときつぐ》卿の日記中天正十年六月二日の項には、次のような記載がある。 [#ここから2字下げ] 二日、戊子、陰 一、卯刻前右府本能寺ヘ明智日向守依二謀叛一謀叛ニ依リテ押寄了、時ニ前右府打死、同三位中將妙覺寺ヲ出了、下御所へ取籠之處ニ、同押寄、後刻打死、村井春長軒已下悉打死了、下御所ハ辰刻ニ上御所ヘ御渡御了、言語道斷之爲レ體也體ト爲也、京洛中騒動、不レ及二是非一了是非ニ及バズ了、 [#ここで字下げ終わり]  ヒが信長のネに気づく時点はいくつかあったようである。鉄甲戦艦の出現もそのひとつであるし、この時代の武人が一様に望んだ将軍宣下を彼だけが望まなかったこともそうである。更には長篠《ながしの》の合戦で武田を完封した銃撃による新戦法や、統一通貨の構想も、ヒがネを察知するひとつのポイントであったことは疑いもない。それらはヨーロッパの思考につながっていた。  しかし遂にヒは信長がネであることを見抜けずに終った。だがそれをもってヒの不明を責めるわけには行くまい。  ネとして動いた信長も、光秀の来襲をはじめは酔った部下の喧嘩《けんか》かと思っていたらしい。しかも叛乱らしいと知ったあともなお、「誰人のくわだてであるか」と近習《きんじゆう》に訊ねている。森蘭丸がそれを明智光秀であると確認するまで、信長は光秀のことを疑っても見なかったのである。  とすれば、信長にとってもまた、光秀はネであったに相違ない。革命が反動につながり、保守が革新を呼ぶ。人の世のはかり知れなさは、光秀、随風らヒ一族のものばかりではないだろう。  ともあれ天正十年六月二日。織田信長は本能寺の火炎の中にその生涯《しようがい》を終えた。  光秀もまた、おのれの踏み出した最初のひと足にひきずられ、みずからが信長にかわる覇者《はしや》となるべく、俗に言う三日天下の道を走ったのである。  二日から十三日までの十二日間、光秀はたしかに信長にかわる新しい政権へ向っていたようであった。しかし世に言う中国大がえしを果した秀吉と京都南方の山崎で遭遇《そうぐう》し、天王山の戦いとなり、敗れて坂本城へのがれようとした途中、小栗栖《おぐるす》の竹藪《たけやぶ》で土民の槍《やり》に命を落した。  果して光秀はその小径を坂本へめざしていたのであろうか。そこはあとひと走りで日ノ岡という地点なのである。しかも彼の右手には義演僧正のいる三宝院が見えるはずであった。  そして信長の死を敵にも味方にも知らせず高松城のかこみをといた秀吉が、京に向って全軍将士を駆けに駆けさせたとき、そこには猪右衛門や与右衛門も従っていたはずである。彼らが信長の死を知り、光秀の行動を知ったとき、ヒとしてどう感じたであろう。  ネとは、人の世にいつもそのようなかたちで動くものなのであろうか。  終りにつけ加えれば、同月十五日、堀秀政は坂本城を囲み、光秀の女婿《じよせい》秀満および光秀の妻子は城内で自刃して果てた。  ただ、産霊山秘録によれば、長男太郎五郎のみは、石川小四郎に辛うじて救出されたとある。  光秀の首は本能寺にさらされ、屍《しかばね》は粟田口《あわたぐち》に磔《はりつけ》にされたという。それもまた、戦国の掟《おきて》のひとつであったろう。  妖異《ようい》関ケ原     一  天正《てんしよう》十年(一五八二)六月の十五日。  琶琵湖《びわこ》を一艘《いつそう》の小舟が北へ向っていた。漕《こ》ぎ来った方角には、今にも降りだしそうな雨雲の下に、比叡《ひえい》の山塊が濃紺の影となってうずくまっている。たれこめた雨雲のせいか、湖面の気配もしらじらしく、生気がない。  濃紺の山塊の麓《ふもと》から、煙がたちのぼっている。煙は白い幕となり、湖水の上をゆっくりと這《は》うように南へ流れ去って行く。  煙のもとは陥ちた坂本城である。  艪《ろ》の音がきしむ。ふなべりに波が当り、しっとりとした音をたてる。いま、小舟の上にそれ以外の物音はない。  静かな落城であった。守将明智秀満は、義父光秀が山崎において敗れ去ったことを知ると、極力戦闘を避けて安土から近江《おうみ》坂本城へ入った。秀満は自軍の諸将を諭《さと》して城から出し、死を決して動かない少数の将士らと共に城門をとざした。  名刀、墨蹟《ぼくせき》、茶器の逸品《いつぴん》など、光秀が生前蒐集した文化財を厳重に荷造りし、これをやがて包囲した堀秀政の陣へ送り届けた。  やがて戦端が開かれ、包囲軍と籠城《ろうじよう》側に多少の死傷者が出た。しかしそれは立場を異にしてしまった男と男の儀礼でしかなかった。  勝敗は既《すで》に決していた。包囲軍は優れた武人の死に、烈《はげ》しく勇敢に攻め寄せることではなむけとし、籠《こも》る側はその挨拶《あいさつ》に深い共感と感謝をもってこたえた。  やがて儀礼の一戦が終ると、秀満は天守へ登った。光秀の女婿《じよせい》として終生を義父の事業に捧《ささ》げた明智弥平次秀満は、その奉仕の最後の仕あげとして、光秀の妻子を刺殺したのである。更に別室へさがってみずからの妻を殺し、煙硝に火を放って燃え拡がるのを確かめてから切腹した。  小舟はその少し前に岸を離れていた。  艪を押しているのは石川小四郎であった。小さな舟の舳先《へさき》に近いあたりにうしろむきに坐り、かすかに上りさがりする舟の揺れに呼吸を合せるかのように、ゆっくりと息をしているのは、光秀の長男、太郎五郎であった。  明智太郎五郎。十三歳である。光秀は彼を十五郎と呼んでいた。他家への文書にもそう記したが、城内では太郎五郎と呼ばれていた。その呼名のほうが古く、十五郎は十二歳の正月に与えられた名であった。 「若《わか》。若《わか》……」  艪を押しながら小四郎はふた声ほど呼んだ。太郎五郎は放心したように坂本の煙を眺《なが》めている。 「皆死んだ」  小四郎はひどく突き放した声で言った。 「人は死ぬ。死ぬ迄生きねばならぬのじゃ」  太郎五郎は眉《まゆ》を寄せ、いぶかるように小四郎の顔を見あげた。 「弥平次どのも十兵衛どのも、よう生きたほうじゃ」  それは生れてこの方、光秀の長男が一度も見たことのない小四郎の表情であったに違いない。それは一人の子供に対する大人の顔であった。縁やゆかりを超えた、一人の男の顔だったのである。 「よいか若。若の生涯は今はじまったと思うがよい。この湖の小舟の上からじゃ。母もない父もない兄弟もない。……故里もない。これからは、行く先ざきの土が故里じゃ。戻る土地があると思うな。みなそうして生きておる。そうして生きて、やがてなんとか家を持つ。運さえめぐれば、家にはやがて蔵がつこう。城にもなろう。安土や坂本のような、天守のついた見事な城にもなろう。時には百姓になるもよかろう。武士と言い百姓と言い、みな人は人じゃ。でのうて、なぜ百姓が武士になれよう。武士がどうして百姓になれよう。人は人……みな同じじゃ。ただ運と不運があるのみよ。人は一度生れた家を離れ、やがてまたみずからの家を持つ。なぜに……。おのれの運をためさんがためじゃ。生家を離れておのれの天運に明日を賭け、その運次第の家を持つのじゃ。なぜに……。子を産み育てる為にじゃ。子が産れ子が育つ。その家は子の故里じゃ。したがその子はまた家を離れる。そのくり返しじゃ。若は今家を離れた。離れようはいろいろあろう。敵に焼かれ親兄弟を殺されて逃げのびるのもさだめのひとつじゃ。あと追う親の手を振り切り、あらぬ夢に身の程を忘れて走り出すのもそのひとつじゃ。一人になった他国の道で、どちらがどうとも言えなかろう」  太郎五郎は唇を噛んでいたが、急に息をつめ、次に一気に喋《しやべ》った。 「仇《あだ》を討てとはなぜ言わぬ。小四郎は殿の家来であろうが。それもいちばんに古い家来ではないのか。落ちのびて家を興し、亡き殿の名を継げとはなぜ言わぬ」 「無理なことを……」  小四郎は嘲《あざけ》るように言った。 「信長公は十兵衛どのの主君じゃ。主を倒した者が、すぐまた倒されぬば天下に正義の樹てようもない。十兵衛どのは未来|永劫《えいごう》逆賊の名をかぶられよう」 「黙れ小四郎。十兵衛どのとはついぞ聞かぬ言いようじゃ。なぜ殿《との》と言わぬ」 「すでに亡き人じゃ。俺は懐しんで十兵衛どのと呼んでおる。昔はそう呼んでおったものじゃ」  太郎五郎は威圧されたように沈黙した。「主でもなければ家来でもない。もうこの小四郎には終生忘れ得ぬあの世の人じゃ。よいか若。若はまだ十三じゃ。小四郎のように重い想いを背負って歩むには、道が長すぎよう。忘れてしまえ。あの坂本の煙も、十三までの身分も、母者の顔も、そしてこの小四郎が若の家来であったことも忘れてしまえ。もう若を若とは呼ばぬぞ。小四郎はわれを太郎五郎と呼びすてにしよう。惟任《これとう》日向守光秀などという人は忘れてしまえ。太郎五郎はこれから一人じゃぞ」  小四郎が言うだけ言うと艪を押す腕に力をこめ、いよいよ遠ざかる岸に顔を向けた。小舟の揺れが急になり、遂に太郎五郎は小四郎の泪《なみだ》を見ることがなかった。     二  暗い夜。小舟は琵琶湖《びわこ》の東北岸、姉川《あねがわ》の川口に近い辺りへたどり着いた。  太郎五郎は湖岸の漁師の倅《せがれ》たちのように、髪をわらで束ね、褌《したおび》ひとつで舟の胴に寝そべっていた。秀満が太郎五郎ひとりを小四郎に託して小舟にのせた時、後日の証《あか》しに持たせた光秀秘蔵の郷義弘《ごうのよしひろ》の脇差《わきざし》も、若殿らしい衣類ともども湖底に沈めてしまったのである。  湖に突き出た坂本城で育った太郎五郎は、裸になれば見事に陽焼けして、漁師の子と見境いがつかぬ程であった。 「よいか、舟にじっとしておれ……」  小四郎は厳しくそう言って陸の闇《やみ》にしのび入った。  秀吉の居城である長浜城は、本能寺の変の直後、光秀に呼応して立った阿閉《あつじ》貞征父子によって占拠されていた。しかし山崎の敗戦でそれもどうなったか判らない。  小四郎は闇の中を長浜方面へ探りに出たのである。だがたちまち女兵の一団に捕えられてしまった。それは空城同然の長浜城から一旦《いつたん》退いてこの辺りに野営していた、秀吉|麾下《きか》の将士の留守家族たちであった。阿閉一族は信長死すの変報にいち早く長浜城を奪ったものの、以後の風向きに備え、女子供に手出しすることをさし控えていたらしい。  捕えられた小四郎は、妹の名を言った。妹の千代は、この時代の世間に聞えた存在になっていた。 「山内一豊どののお身寄りなそうな」  それだけで警戒が一度に解けた。千代はすぐ闇の中から走り出て来た。 「坂本は陥ちましたか」  千代は囁《ささや》くように訊ねた。 「秀満どのが見事に跡をされた……」  小四郎はそこまで言い、一度に涙をふきださせた。両掌を顔に当て、きつく結んだ唇から、時折りこらえ切れぬ声が洩《も》れた。千代は兄の肩をかかえるようにして道ばたの木立の中へいざなった。 「千代。虚《むな》しいぞ」  小四郎は呻《うめ》くように言った。「殿はただのさむらいではなかった。一度もお語り下されたことはなかったが、ただのお人ではないことは知っていた。神が人の世につかわしたみ使であられたのだ」  千代は眉《まゆ》をひそめてそう言う兄の肩をだいていた。六月の闇がその不審げな表情をおしつつんでいる。「俺は知っていた。殿が信長公の天下を招来したのじゃ。いくさをなくし、この世に泰平をもたらそうと遊ばされたのじゃ。……それがなぜ。それがなぜおんみずからの手で信長公をお倒しあったのか。もうさむらいはいやじゃ。さむらいとして生きとうはない」 「兄上。それは余りにお気弱でございましょう」 「いや違う。殺し合いが武士の仕事じゃ。殺し殺されることが恐ろしゅうなったのではない。だが、知らされぬまま生きることが辛うなったのじゃ。俺は殿のなさりようのままに生きて来た。殿は俺にとって天じゃ、神じゃ、仏じゃ。あのお方の命ずるまま、あのお方のご運のままに俺は生きて来た。だが、そのお方のお命が、何の実もこの世に結ばずに終られては、この俺の三十余年の生涯《しようがい》はどうなるのじゃ。なぜ何の実も結ばぬ内にお命が終られたか、俺にはそれすら判らぬ。知らされぬままに生きるなら、明日の雨風雪《あめかぜゆき》を知らされぬまま、大地をたがやす百姓のほうがまだましじゃ。天がなくなることはない。……殿は俺の天じゃった。その天が一夜にして失せてしまったのじゃ」 「兄上はお昂《たかぶ》りになっておられるのです」  千代はそう言って小四郎を草の上に坐らせた。「阿閉《あつじ》の兵もすでに今宵長浜を退きました。明日はお城へ戻ります。兄上もおいでなされませ。一豊どのがよいように致しましょう」  小四郎は涙を手の甲で拭《ぬぐ》い、強くかぶりを振った。 「それはなるまい」 「なぜでございますか」 「このずっと先につないだ小舟の中に、若殿をかくしてある」  千代は息をのんだ。 「太郎五郎さま……」 「そうじゃ。よいか千代。この先ざき、何かと千代に面倒をかけようが、かまえて太郎五郎さまのこと、一豊どのに知らせるでないぞ。わが殿が羽柴殿を討って、見事天下の主《あるじ》になられたのなら話は別じゃ。したが討たれては主殺しがすぐ殺しかえされたまでのこと。逆賊よ裏切りよと、末代までの汚名にまみれようは知れたことじゃ。これよりあと、明智の名は悪と同じじゃ。まして一豊どのは羽柴殿の一手を預る身。若殿をかくもうて共に滅びることにならぬとも限らぬであろうが」 「では太郎五郎さまをどう遊ばされます」 「ただの人に育てる」 「ただの人に」 「殿は本能寺での事を起すまぎわ、ただの人におなり遊ばされたいご様子じゃった。天地の明け暮れるまま、時世《ときよ》の移りかわるまま、ただの人として生きて行くおつもりであったような……。俺は若殿をそう育てる。天下の泰平を一人の力でもたらそうとすることが、どれ程無理なことか、あの山崎の合戦で知れようが。神につかわされた殿が敗れ、一匹の猿が二つとない功名を手に入れてしまう」 「お声が高うございます」  千代は道のあたりの気配をさぐりながら言った。 「もし神のみ使いの血が若殿の体にたぎることがあれば、それはその時のこと、俺はむしろそれがたぎってくれぬことを祈りたいのじゃ」  千代は深い吐息を洩らした。闇の中の小四郎からは、僧のような気配が漂《ただよ》いだしていた。     三  洛南《らくなん》、日ノ岡。  ここもいまは闇《やみ》にとざされている。ただ、この辺《あた》りの地名をもたらしたヒの岡の小さな祠《ほこら》に、細い灯が揺れている。  正面にヒの神器である御鏡《みかがみ》が置かれている。伊吹《いぶき》と依玉《よりたま》の二器は、その左側に揃《そろ》えて並べてある。  御鏡の中央が時折り白く曇り、その曇りが僅《わず》かに渦動《かどう》したと見るたびに、御鏡の前に忽然《こつぜん》と人が湧《わ》いて出た。  山内一豊、藤堂高虎、中井藤右衛門……三人があい前後してヒの岡へテレポートして来た。誰《だれ》が現れても、ヒの長《おさ》随風《ずいふう》は黙然と祠の前の草の上に胡坐していた。草は夜露にしっとりと濡《ぬ》れ、時折り風が山の樹々を轟《ごう》と鳴らして過ぎて行く。  沈黙を続ける随風の前に三人が次々に坐り、揺れ動く細い灯火のために、その四つの影は人ともけものともつかぬ形に見えている。古来京の人々がこのあたりを妖《あやし》ケ原《はら》と呼んだのは、このような光景に怯《おび》えた者がいたためであろう。 「どうすることも叶《かな》わなんだ」  一豊が深い悔《く》いをこめてつぶやいた。 「せめて一声なりとおかけ下されば、わが勢《ぜい》の行足《ゆきあし》をとめることもできたであろうに」  高虎は憤りをぶつけるように言った。 「また四人がこうして集《つど》ってしもうた。四人が集うのは悪い折りばかりではないか」  藤右衛門は嘆息して言った。 「随風さま。何をお考えでござるか」  そう言った一豊はすでに三十五歳をこえたはずであった。この前四人が集ったのは、比叡山《ひえいざん》西塔の近くの瑠璃堂《るりどう》の辺りである。信長によってヒ一族の故郷である比叡《ひえ》が焼かれ、この四人は深い嘆きと憤りをおし殺して死骸《しがい》の積み重なった道を下ったのだ。その頃の随風の年齢に、いま一豊はさしかかっている。 「みなの心を聞きたい。これからどのようにして生きればよいと考えておる……」  随風が低い声で言った。一豊も高虎も、ほぼ完全ないくさ仕度である。藤右衛門だけが軽々とした宮大工のなりで、その身軽さを利したように、すらりと答える。 「ヒにもいろいろな生き方があってよろしかろうと考えます。私めは大和の宮大工中井家へもらわれて家職を教えられ申した。宮大工の暮しが好きになり、それなりに考えることがございます」 「申してみよ」 「諸国のあまねく人々が崇《あが》める宮や寺は、そもそもの起りをみなヒの産霊山《むすびのやま》に持っており申す。われらが神籬《ひもろぎ》を組み、わたり歩くことのできる産霊《むすび》の地は、いにしえより人々が祈りを向けるあてどころでござった。もともと産霊の地とはそのような祈りを集めるところではございませぬか」 「そうじゃ……」 「人に限らず草も木もけものも鳥も、明日よかくあるべしと今日に祈り、その祈りが凝って白銀の矢となる時、産霊《むすび》の山はそれを受けて明日を定めるのでございましょう。人もけものも草も木も、それを生れながらに知っており申す。中でも人は最もよく祈る命として、その祈りのあてどころにやがて目じるしを置いたのでございましょう。それが宮のはじまりであり、人の数、里の数がますに従い、尊い産霊の山は各地に勧請され、産霊の地以外の地にも宮が建てられることとなり申した。宮は仏法の伝来と共に寺となるものもあり、釈迦《しやか》、如来《によらい》、観音《かんのん》、菩薩《ぼさつ》とさまざまな本尊、宗旨を持ちはいたしましたが、みなもとはすべて産霊の地にございます」 「それで……」 「私めは宮大工として、宮や寺を建てることにヒとしての生れをいかすつもりでござる。人の祈りをよく集め、よい明日が作れましょうなら、ヒとしての役目は充分に果せたことになると存じます」  随風は刺すような視線を藤右衛門に送った。 「芯の山はどうする」 「果して芯の山なるものがございましょうか」  藤右衛門は悪びれる様子もなく、ズケリと言った。「すべての産霊の山の上に位する芯《しん》の山があり、この世の祈りはすべてそこに集って明日を定める。……まことならば是非ともたずね当てねばなりますまい。だがヒはそれを求めて千年の余もさすらっておるではござりませぬか。ヒが昔ながらにあてどなく諸国をたずね歩く間に、人々は非業の死をとげ、いわれのない罪に苦しんでおりましょうが。けものは矢で射られ、山の草木は畑とする為に焼き払われており申す。ヒは芯の山を求めるがそもそものありよう……そのことは充分承知の上でござる。その上でなお、この藤右衛門は、いま、今日の役に立ちたいと考えるのでござる。芯の山をたずねるヒ、宮や寺をたてて今日の祈りを集めるヒ……所詮《しよせん》同じ役目ではござりますまいか」 「なるほどのう……」  随風は太い吐息《といき》と共に言った。「里者となってもヒの役は果せると申すのじゃな。いや、叱《しか》ってはおらぬ。藤右衛門の考えようは、どこやら光秀どのと似通っておるようじゃ。光秀どのは織田の一部将となることで、この世に太平をもたらそうとなされた。……よいわ、藤右衛門、思うようにせい」  時代が動いている。……随風はそれを痛いほど感じたらしかった。俗世に介入せぬことを掟《おきて》の一部とし、それに何の疑念もさしはさまずに来たヒが、随風の代になってのめりこむように俗世の動きに没入して行くのだ。随風自身、勅忍の宣下以来、御所の与えた使命が終ってもその動きをとめることができなかったのではないか。ヒに新しい命がはじまっている。  随風は眉をあげて暗い空を見あげた。     四  数年後、随風は信濃《しなの》の僻地《へきち》で猿飛を見た。  猿飛は武田信玄を兄飛鹿毛の犠牲において呪殺《じゆさつ》してからというもの、ふっつりとヒ一族の前から姿を消していた。彼がヒの者として芯の山探索の為に預った産霊山は諏訪《すわ》大社であったから、いずれ信濃あたりにかくれ住んでいるものとは思われたが、随風が折りを見ては何度も探索の手を伸したにもかかわらず、一向に消息が掴《つか》めないでいた。  随風は正倉院《しようそういん》御物中の古代の亀甲《きつこう》を手がかりに、そこに描き出された線に見合う地形を求めて関東、東北の各地をたずね歩いていたが、猿飛の手がかりを発見したのは、上野《こうずけ》から鳥居峠《とりいとうげ》を越え、信濃に入って神川の谷を下ったあたりであった。  随風はその神川を更に下って真田《さなだ》を経、西北へ道を取って地蔵峠《じぞうとうげ》から松代《まつしろ》へ出るつもりでいたらしい。  神川を右に、山腹の小径《こみち》の登り下りをくりかえしている時、行手の道をさっと横切る影があった。随風は足をとめ、谷側の茂みへ去って行くその影を見送った。陽焼けした頬《ほお》の辺りに、浸み出るような微笑があった。  子を連れた鹿であった。  やがてあの小鹿も親を離れよう……。随風はふとそう思い、かつて小鹿と呼ばれた藤堂高虎の顔を想い泛べた。  随風はすでに五十歳に近い。まだその五体に老いのかげはみじんもないが、親の哀しさを知る齢になっている。若いヒはみな芯の山探索という迂遠《うえん》な道から遠ざかり、それぞれの分に応じ、直接俗世に介入してヒの使命を遂げようとしている。  なんと性急な、とも思わぬではない。しかし若いヒの心もよく判っている。芯の山はいわばひとつの天地間の真理である。真理がかけがえもなく尊いものであることは、若いヒの者たちにも充分によく判っているのだ。しかし、真理がそうたやすく手に入るものでないことも、彼らはよく知っている。俗世の動きに超然とし、人煙《じんえん》まれな山々をへめぐって芯の山を探求するのが、あるいはひとつの怠惰《たいだ》、一種の逃避、もしくは卑怯に思えるのであろう。芯の山探求の役は誰《だれ》かがやらねばならぬ……若いヒは誰もがそう言った。しかし自分がその役を果そうとは遂に言わなかった。  結局随風ひとり、こうして黙々と東の山々をへめぐっている。その内あの若者たちの間から、誰かがこの山道へわけ入ってくることだろう。……心もとない期待ではあったが、随風はそう信ぜずにはいられなかった。  と、その時。再び歩みはじめた随風の行手に異様なざわめきが発した。まず猪《いのしし》が道を横切り、次に樹上を野猿《やえん》の一群がとび渡って行った。雉《きじ》がその方角へとび、栗鼠《りす》までが茶色の影となってとび去った。  妖……と感じた刹那《せつな》、随風の姿は道から消えていた。けものたちの行きすぎた山あいの道に、木洩《こも》れ日《び》が黄色く小さな陽だまりを点々と作り、微風が下生えの草の葉をかすかに揺らせていた。  驚くべきことに、随風はすでに神川べりの岩の一部と化している。山腹の道から一瞬の内に谷底の川へ跳《は》ね降り、巨岩が作る黒い影に入って自然の一部と化していたのだ。  ヒの者が生得のものとしている一種の野性的な忍法であろう。  それは随風の長い山歩きの経験の中にも、かつてない妖異《ようい》な雰囲気《ふんいき》だった。……常人なら感ずることもなかろう。しかしいま、このあたり一帯に湧《わ》き出している不可思議な気配は、ヒの警戒心に刺すように訴えている。  吽《うん》……。随風が背に負った四角い箱包みの中で微かな音がしているようである。随風は隠れひそんだ背後から刃物をつきつけられたように、はっとして目を剥《む》いた。  胸許で結んだ紐《ひも》にそっと指をかけ、ゆっくりと解いた。あたりに気を配りながら、それを外す。山にも谷にもヒにだけ感じる不可思議な気配が漂《ただよ》っているほかに、人影の動く様子はない。  岩が作る狭い影の中で随風は背に負った箱包みを外し、そっとひらきはじめた。音は明らかに箱の中から聞えている。  蓋《ふた》をとると音が少し高くなった。  ヒの神器|伊吹《いぶき》が鳴っていたのである。随風は唸《うな》りを発する伊吹にそっと指を触れてみた。伊吹は日本の神道にあって剣《つるぎ》と解されている。仏法にあってはインドの武具から転じた独鈷《とつこ》、三鈷《さんこ》、五鈷《ごこ》などの金剛杵《こんごうしよ》と解されているらしい。が、その原型であるこの伊吹は、今日の音叉《おんさ》に最も形状がよく似ている。  随風は眉《まゆ》をひそめた。この辺りは産霊《むすび》の地ではない。そのことは何年も前に随風自身が念入りにたしかめてあった。しかし伊吹が現に唸りを生じている。とすれば、以前の調査にどこか手落ちがあったのか。  それにしても、伊吹がひとりでに唸りだすとは奇怪な現象である。三種の神器にはいろいろな組合せ方があることが伝えられているが、それが作動するのは産霊の地にこもる玄妙《げんみよう》不可思議な霊力に頼らねばならない。かつてヒの飛鹿毛が一度だけ、武田信玄を呪殺するのにおのれの体を小産霊山とし、御鏡と依玉をあおむけに横たわって捧《ささ》げ持ち、見事に作動させたことがあったが、それはヒの者の体内に産霊の地と同じ霊力があったからである。随風が携行している三種の神器はたしかに随風の背中にくくりつけた箱に入れられてはいるが、随風自身は何も神器を作動させるような念力は凝《こ》らしていなかった。  随風はふと思いついたように、伊吹を土の上にたて、真綿でしっかりとくるんだ依玉をとりだすと、包みを半ば解いて左掌にのせた。そして伊吹の周囲をひとまわりさせる。  随風の手が急にとまった。音叉に似た伊吹と依玉が、たった今下って来た鳥居峠の方角に並んだ時、かすかに白光を放ったからである。  随風は神川の上流をきっと睨《にら》んだ。     五  随風は神川を疾風《はやて》のようにさかのぼって行く。その速さは、遠い神代の昔からきたえられ、常人の限界をはるかに超えている。まして随風はヒの長《おさ》である。小石ひとつ動かさず、草の葉一枚ひるがえすことなく走り去る。むしろ飛び去ると言ったほうがよい。神川へ落ちこむ斜面に足が掛るとき、随風の五体は斜面と同じ角度で谷へ傾いていた。  飛鹿毛、猿飛、飛稚《とびわか》と、随風の三子に飛の一字が共通しているのも、この随風の飛ぶが如き走りようを見ればうなずけよう。彼は僧衣をひるがえし、あっという間に菅平《すがだいら》へ出ると、最後の一足を踏切り、四間ほどの距離をひととびしてぴたりと停止した。着地の前、五体が宙にある内にすでに片膝《かたひざ》をつき、あたりをうかがう体勢が整えてあった。  その姿勢でうずくまった随風は、面を伏せ眼をとじている。ヒは人跡まれな山野にあると、そうやって二里四方の気配を察知したと言われる。しかもうずくまった随風の体は、彼が大きく跳躍《ちようやく》した瞬間、千古の自然に同化して常人には見えることがない。それはおのれを自然の一部として認識して来たヒ一族の特質であった。俗世に介入せずの掟も、この特質が損なわれることをおそれてのことかも知れなかった。  随風は、つと顔をあげ、東北の山を見た。 「む……」  随風は再び飛び去る影となって奔《はし》った。神川の源はその山に発している。……霊気が川の水を染めていたらしい。随風はそう判断したようである。随風はひた走りに山をめざした。  神変《しんぺん》不可思議な現象……それを求めてひたすら山野を跋渉《ばつしよう》した往古のヒは、恐らくこのような時、たとえようもない喜びに心を躍《おど》らせたに違いない。これは俗界にはあり得ないものである。  この玄妙なるものは、日月星辰の動きの裏にあって、森羅万象《しんらばんしよう》のありようを定める深遠な掟《おきて》に通じている。人の世の縁《えにし》のからみ合いも、鳥の羽根の形も、火が燃え、燃えつきたその灰の行方までも、すべての謎《なぞ》がそれにかかっている。大地の寿命も天の裂ける日も、すべてはその謎を解くことで知れるのである。千年の余もヒに山々をへめぐらせた情熱は、このような一瞬の喜びにこそあったのである。随風は奔《はし》る。ヒとして奔る。生きとし生けるものの総代として、みずからがなぜ生きるか、その答を求めて奔るのである。  いつしか随風は自分に先行するものがいるのに気づいた。それは人ではなかった。鳥、けもの、虫……この辺りの自然にあって、その身の動くものすべてが山へ向っていた。随風は虫を追い越し、けものに混って奔った。  人とけもののけじめが消えていた。同じ命にすぎなかった。みな仲間であった。狐《きつね》はうさぎの群れを跳びこえ、鹿《しか》と山犬が体を並べて駆けていた。熊《くま》が行く。野猿が行く。そして天台の高僧随風も行く。  が、随風は俗世に慣れ棲《す》んだ人間でもあった。山頂が近づくに従って邪気が起った。  その邪気は、俗世で智恵ととうとばれている。警戒心であり観察力であり、理性であり客観であった。随風の速度にためらいが生じ、けものに遅れた。そして遂に立ちどまった。  おのれを自然の一部として認識するものに客観はない。主観こそすべてである。しかし随風はけものたちの持つ超然とした主観を持ち続け得なかった。邪気が頭をもたげ、疑いをささやきかけた。随風はおのれの智恵に負け、みじめな想いで立ち止った。仲間であった山の生き物たちはこの邪気深い異端者を見棄《みす》て、どんどん登って行く。  随風の顔には物哀《ものかな》しげな表情が泛《うか》んでいた。それはおのれの智恵の重さにうちひしがれ、落伍《らくご》した生き物の顔であった。  随風はその想いをとき放つように、首を二、三度うち振った。肩でひとつ息をし、人の誇りを呼び戻した。だがその誇りとは、堕落した精神の自己弁護のようであった。  ここはまだ知られぬ産霊《むすび》の地か……。けものたちに混って山頂へ突進する意志が挫《くじ》け、随風はこと更らしくたちどまってあたりを眺《なが》めた。正倉院の亀甲《きつこう》地図をとり出して、地形を調べようとさえ思ったらしい。  が、それもおのれ自身へのてらいであると気づいたのか、また山頂に眼を転じた。  そこに何かある。何かが起っている。それはたしかであった。けものたちの素直さに気圧《けお》されて、そのような戸惑いを起した自分を慚《は》じたようだった。 「儂《わし》も里者同然になり下った……」  随風は低く声に出してつぶやいた。往古のヒにこのようなことがなかったのはたしかであった。  随風は智恵に満ち満ちた天台の高僧の顔に戻り、忍者の宗家《そうけ》にふさわしい隠形《おんぎよう》ぶりで山頂をめざした。がおのれの智恵すなわち邪気を慚じる心がうずいているようであった。  やがて随風は、山頂のあたりにおびただしい鳥やけものが寄り集っているのを見た。生き物たちはこんもりとしたひとかたまりの木の繁みを中心に、思い思いの足どりでのそのそと動きまわっていた。腹を大地につけてうずくまっているものもいた。位置を変えて繁みの中を覗《のぞ》いた随風は、そこに貧弱な社《やしろ》のようなものがあるのに気づいた。そして、一人の若い女が、生き物たちの間を歩きまわっていたのである。美しい女であった。  女は生き物たちと遊んでいるように見えた。餌《えさ》をやる様子もなく、ただ生き物たちの間をたのしげに歩きまわっているらしい。小鳥が肩にのり、けものの背や頭を撫《な》でまわっている。ここではあらゆる生存競争が中断しているらしい。虫も鳥もけものも、この休戦をたのしんでいるように見えた。  猿飛のしわざだ……その時随風ははじめて直感した。ヒ以外にこのような楽園を望み、しかもそれを実現する者のあるはずがない。  随風は息をつめて雑多な生き物たちが、親しげに群れつどう有様をみつめていた。     六  夕風が立つ頃、生き物たちはそれぞれの領域めざし、来た道を辿《たど》って山を下りはじめた。僅《わず》かの栗鼠《りす》と野猿《やえん》を残すのみとなったその楽園の広場の端に、随風の影があった。  若い女はすずやかな瞳で随風の正面に立っていた。 「お下りなされませ。まもなく陽が落ちましょう」  女が言った。 「ゆず。誰《だれ》かおるのか」  まぎれもない猿飛の声であった。 「儂《わし》じゃ。随風がたずねて参った」  小さな社《やしろ》から痩《や》せた影が現れ、広場へ出て来た。西に傾きはじめた赤い陽を正面から浴びて、猿飛は女と並んだ。彼の唇の端に皮肉な歪《ゆが》みがうかぶ。 「やあ。父上……」  随風の心に、いま五体へ吹きつけている夕風以上に物淋《ものさび》しい風が立ったようだった。父上、と猿飛は呼んだ。それは彼がヒを棄《す》てたという宣言に等しい。 「達者でおったか」  だが随風はそう言わずにはいられなかった。父上と呼ぶ相手をとがめる前に、せめて一瞬の間でも同族としての柔らかな触れ合いが欲しかった。 「これはゆずと申す。妻にめとりました」  妻。……それもよかろう。随風は心の中で殆《ほと》んど叫ぶように思った。一豊も高虎も藤右衛門も、それぞれ思う道を歩ませてヒの掟《おきて》に縛りつけてはいない。時代が変り若者の生きようも変ったのだ……そう認めているのに、なぜみなかたくなにおのれの生きようを突きつけてくるのか。儂はお前たちの敵ではない。  随風は寒ざむとした孤独の底でそう叫んでいた。しかし、その顔にあらわれたのは、すべてをないまぜにしたあやふやで寛大な笑顔なのだった。 「よい女性《によしよう》らしい……猿飛をしあわせにしてやってくれ」  随風は軽く頭まで下げた。啀《いが》み合うまいとする心が自然とそうなった。猿飛はかすかに眉《まゆ》を寄せてそれを見守っている。 「ゆずは飛稚《とびわか》をよく存じております」  猿飛がそう言った。やや態度がやわらいでいた。 「飛稚を……どこでかの」 「京でございます」  愛らしい小さな唇から白い小粒の歯がこぼれ、それにふさわしい細く柔らかな声であった。 「とにかくあれへ……」  猿飛は繁みの中を示し、随風をいざなった。樹は低く、その繁みはやや薄かったが、明らかに比叡《ひえ》の飛地蔵を摸していることが判った。小径《こみち》の突き当りに小さな社があり、その裏手に頑丈《がんじよう》な住居がしっかりと大地に根を据《す》えたようにうずくまっている。  家は小さく、近くに飛地蔵のような小川もなかったが、若い女のいるすみかは、不用意なほど艶《つや》めいて見え、随風ほどの男にもこそばゆい感じを湧《わ》きあがらせた。小鹿が一匹、三人のあとを慕って首をふりふり土間の中まで入って来る。ゆずと呼ばれた女はそれを両手であやすように外へ追いだした。  火が燃え、随風は炉《ろ》のそばへくつろいだ。 「京におられたとな」  随風は何やら接待の仕度をはじめた土間のゆずに声をかけた。 「はい。京で拾われました」  ゆずは明るい笑顔でそう答える。 「飛稚め、京でみなし児どもの頭領をつとめておったそうで……」  猿飛も笑顔で言った。 「みなし児の頭領か」 「はい。戦火に追われ親兄弟を失ったみなし児どもは、多く京へ流れて参ります。河原に住みつき小屋をたて、みなし児同士寄りつどって暮すのだそうでございます」  猿飛はそこで軽く笑った。「飛稚め、犬走りの六とやらと組んで、そのみなし児どもの頭領に納まり、どこからか着る物、食い物をかすめて来ては配っていたとか……」 「初耳じゃ。すると、つまりみなし児どもを養うておったと申すのか」  土間でゆずが返事をした。 「はい。わたくしが寄っておりましたのは、はじめ二十人ほどの組でございましたが、飛稚さまが加わりましてからは、のちに百二、三十人ほどにもなりました」 「百二、三十人ものみなし児を……あの飛稚がか」 「盗みは達者でありましたそうな」  猿飛はからかうように言った。それはヒの長《おさ》の知らぬヒの一面をあばきたてているようでもあった。 「十二か三の子供が百以上の数のみなし児を養うとすれば、盗むよりあるまい」  随風は弁護するようにつぶやいた。 「権爺《ごんじい》の体練がとんだ所で役立ったものでござる」  そう言う猿飛を随風ははじめてとがめるように睨《にら》んだ。 「ヒは諸国の忍びの宗家じゃ。たとえ十二か十三の子供でも、ヒなればそのくらいのことはたやすかろう」  睨んだ眼が、いつしかうっすらと潤《うる》みはじめていた。……信長の叡山《えいざん》焼打ちの兵に追いつめられ、思わず空《から》ワタリでこの世を去った幼い飛稚も、やはりヒであったのだ。……儂の倅《せがれ》じゃ。随風の心にふとそう感じるものがあった。  ヒに父子、兄弟はいない。母も妻もない。古い掟《おきて》はそう定めていた。しかし、ヒの長《おさ》随風にしても、父と子を意識する瞬間からのがれられないのだ。  時代が変っている。里者が増え、その圧倒的な数がヒの魂をまき込んで行く。猿飛はまだ二十代の若さである。その若さが時の流れを吸収し、新しい生き方を求めさせているのだろう。     七 「よい妻じゃ。しあわせであろうの」  ややあって随風は慚じるような低声《こごえ》で言った。猿飛はみるみる喜色を泛《うか》べた。 「はい。ここに住んで神器の秘法を究《きわ》めようと思います」 「神器の秘法……」 「先年信玄公を害し奉って以来、神器には未だ知られざる秘法があることを覚りました」 「すると、先刻のけものたちは……」 「いかにも。あれは飛鹿毛が試みた術を独りで行います」  随風は瞳を輝かせた。 「どうするのじゃ」  すると猿飛は、御免と言ってごろりと横になり、幼児が這《は》う形をあおむけに演じた。そして首を立て起し、両掌を顔の前に合せて花の開く形をとった。 「依玉をこう持ちます。そして両の腿《もも》に御鏡をはさみます」  奇怪な姿態であった。しかし随風にはその意味がよく判った。飛鹿毛はその逆で、あおむけに寝て立てた膝《ひざ》に依玉を置き、御鏡を捧《ささ》げ持って、脚の方から猿飛に祈念させたのである。産霊の地で御鏡、依玉、念者の順に神器が並んだ時、遠隔の産霊中にあるヒに話しかけることができるのである。  飛鹿毛はヒの者の体が産霊山と同じ働きを持つことに気づき、一種の携帯用念力放射機として用いて武田信玄にとどめをさしたのであった。ただそれにはもう一人、猿飛の操作が要《い》った。  猿飛はそれを更に発展させ、一人で使用できるように考えたらしい。随風は若者の柔軟な思考に目をみはる思いであった。 「御鏡に天地左右があるのを随風さまはご承知でござろうか」  猿飛ははじめの反抗的な態度を忘れてしまったらしく、ヒの者らしく随風さまと言う呼び方に戻っていた。 「知っておる」 「だが天地左右の置きようによって、わずかずつ神籬《ひもろぎ》が異った働きをすることはご存知ありますまい」 「…………」  随風は答えなかった。いや答えられなかった。ヒに伝わる古法どおり、天地左右を一定の位置にして、それをたしかめてから用いていたのだ。逆や斜めに置くなど、考えもしなかったことである。  猿飛は頬《ほお》をうっすらと紅潮《こうちよう》させていた。 「古法どおりに置けば信玄公の時のように、ただ一人の相手に念力がかけられます。それを逆さに置くと、大勢を相手に致せます。先刻山の生き物たちを呼び集めましたのは、御鏡を逆さに置いたのでござる」 「なる程。しかし飛鹿毛は信玄公一人を呪殺《じゆさつ》する為に乾《かわ》いて死んだぞ。大事ないのか」  随風は明らかに父親の顔で痩《や》せた猿飛の五体を眺《なが》めた。案じているのであった。 「大事ありませぬ。あの時には今ひとつ、念者の命を守る手だてに欠けていました」 「命を守る法があると申すのか」 「はい。ヒの神器はあくまで三種のものでございます。三種の神器があるということは、あくまでも三器ひと揃《そろ》いで用いるべきであろうと存じます。産霊の地の外で依玉、御鏡の二器のみを用いる時でも、もうひとつの神器である伊吹が要るようでござる」 「伊吹をどうするのじゃ」 「念者の体と大地をつなぎます。さすれば産霊の力が身に籠《こも》って命を減らすこともなく、かえってあとさわやかに用い得るようでございます」  つまり、猿飛の言っていることは接地《アース》であった。飛鹿毛は接地《アース》しなかった為にミイラ化してしまったのであろう。 「一度に大勢を呪殺《じゆさつ》することが出来るのか」 「いや、そこのところはいまだに……。念者の修業次第とも、また修業をいかように積んでもかなわぬとも思われます。ただ、この猿飛の念力が只今《ただいま》のところ及びますのは、人やけものの気分を操るぐらいなこと。けものたちを呼び集め、争いのないおだやかな気分で半日を暮させることはできるようになり申した」 「それでか。……よい眺めであった。人の心もあのようなおだやかさに導くことができればのう」  随風がしみじみと言った。 「ゆずは生き物が好きでござる。せがまれてつい、三日にあげず……」  猿飛は問われぬことを言った。言いたかったに違いない。動物好きなゆずを愛《いと》しく思っているのだろう。 「そちたちに逢《あ》えて儂は喜んでおる」  随風は並んで坐《すわ》った二人をみつめて言った。「末長くしあわせに生きてもらいたいと思う。多くの子を産み、すこやかに育ててもらいたいものじゃ。もうあの比叡《ひえ》は要らぬ。ここがそなたたちのひえじゃ。女児《むすめ》であってもここで育てよ。手離すでないぞ」  猿飛は胡坐《あぐら》を改めて膝を揃《そろ》えた。 「はい」 「しかしヒであることも忘れてもらいとうはない。これが父の本心じゃ」  猿飛は愕《おどろ》いて随風を見た。ヒの長《おさ》がみずからを父と名乗ったのである。猿飛はまばたきもせず父をみつめている。……ゆずはやがて身ごもるに違いない。いつかは父になるのだ。  猿飛は遠い昔の若い随風を見ていたようである。飛地蔵の森を兄の十兵衛と駆《か》けまわった随風。里者の女を愛した随風。その女の産んだ男児を権爺《ごんじい》に託した随風。そして三子の内二子までを平和への闘いで失った随風。  猿飛は父の顔に人生を読んでいるようだった。     八  遠く神代よりとされるヒの伝承によれば、ヒが不当に俗界に介入した時、その穢《けが》れが積ってネが生じるとされている。  光秀、随風らがヒ一族として乱世を鎮《しず》める為、織田の天下招来に努力した時、そのネは信長の天皇制否定となって動いた。  随風の兄に当る光秀は、そのクーデターを身を挺《てい》して防ぎ、本能寺の変となった。そして光秀はそのまま以後の十二日間を、自己の政権樹立の方向に走り、遂に山崎の合戦で秀吉に敗れ、小栗栖《おぐるす》の小径でその人生を終えた。  しかし、信長に西欧の思考法を教えた巨大な影の如きネは、なおも動きの尾をひき、歴史を複雑にしている。ひとつには、信長のクーデター計画が緻密《ちみつ》でありすぎたためでもあった。  信長は麾下《きか》の諸将といえども、源平以来の天皇家尊重の精神で動く可能性があることを強く警戒していた。そのため、天正《てんしよう》十年六月上旬という、いおば信長にとっての作戦開始日《デー・デー》には、諸将が中央から遠く散っていることを望んだ。  柴田勝家は北陸。滝川一益は関東。羽柴秀吉は中国。そして身内の信孝と丹羽長秀までが四国へ渡るところであった。  最も警戒すべき家康に至っては、単身本国から引き離されて安土《あずち》にあり、京周辺の遊山に出されて、本国家臣団との連絡も絶たれる程であった。  光秀がひとりその中で親任され、京市中襲撃の実施部隊に選ばれていたのは、信長が光秀の理想主義を誤解したためではないかと推察されるが、両者ともあいついで死んだ今となっては、その詳細を明らかにすることはできない。  しかし、信長の計画が今少し違っていたら、歴史はもっと簡潔なものになっていたであろう。  たとえば、徳川家康がその本拠である東海にあったなら、たぶん秀吉の中国大がえし、およびそのあとの山崎合戦という事態は生じなかったに違いない。本能寺の変が起れば、家康がまず第一に京へ或いは近畿《きんき》一帯に入り、光秀に対しもっと穏やかな策を講じたに違いない。  いやむしろ光秀はそれをこそ望んだであろう。彼はやむを得ず三日天下の道を走ったのであって、家康が後事を受けてくれれば、自軍に恭順《きようじゆん》を命じ、それこそ本来のヒに戻って、猿飛のように山にかくれたであろう。或いは喜んで家康に首をさずけ、徳川に天下の機会を与えたかもしれない。  だが、いち早く、それも驚異的な速さで駆けつけたのは中国からの秀吉であった。ひょっとすると光秀は家康にこそ来てもらいたく、家康の一刻も早い来着を待ち望んでいたのかも知れない。  この頃から伊賀《いが》、甲賀《こうが》の忍びが徳川体制に組み込まれたことを見ると、忍びの宗家であるヒが、家康の帰国に何らかの援助を与えていた可能性がある。  ともあれ、皮肉なことに、光秀が次の権力者としての素質を最も低く感じていたであろう秀吉が、この時代の最新の軍事を心得ていたのである。その結果信長の新国家構想の聞き齧《かじ》り程度で、彼は次の時代を指導して行くことになってしまった。  金、銀、銅など、鉱山の占有《せんゆう》は、信長にあっては経済構想の根幹《こんかん》をなしていた。しかるに秀吉はそれを権力保全のためのデモンストレーションにしか用いえなかった。  貨幣を統一し、単一通貨による国内経済の近代化をはかり、海外通商に打って出ようとする信長構想は、馬鹿馬鹿しい超大型の恩賞用金貨の鋳造《ちゆうぞう》にすり変えられ、通商の出先機関設置とその権益確保のための海外進出は、全く意味のない侵略行為となり果ててしまう。  秀吉は無能な指導者であった。  それは、ネでもあった。ヒの伝承にあるネの妖《あや》しさとは、このような歴史のひずみをもたらすことをさしているようである。  このネの一撃は歴史に秀吉十六年間の天下を与え、家康の将軍在位期間を僅《わず》か二年に減らしてしまった。多元宇宙のどこかには、信長—家康の直結した歴史があり、そこでは家康が信長構想を充分に生かしているのかも知れない。  家康が関ケ原まで待たねばならなかったことは、彼を必要以上に保守的にした。いや、以後の徳川幕府を極端な保守政権に変えてしまったのである。その三百年の間に日本人の美意識は、戦国以前のものから著しく変形し、信長のような闊達《かつたつ》で果敢な人物の発生に圧力を加えることになった。  そこにヒがある。  ヒの使命のひとつは天皇家の存続を守ることである。  とすれば、ネはヒにとってのネであって、結局ヒとネは一体となってその目的を達成しているのかも知れない。  が、ここにひとり、藤堂高虎という奇妙な存在が知られている。高虎……かつて比叡山の麓《ふもと》の飛地蔵でヒとして養育され、のち近江《おうみ》の地侍の子として戦国を生き抜いたこの人物は、正史の裏で必死にネと闘ったヒの一人である。ネによって生じたひずみを正し、豊臣家の滅亡に力を尽した彼は、果してその意味を覚っていたであろうか。  いや、恐らく生涯《しようがい》一度もそれを覚ったことはあるまい。この時期のヒ一族にあって、彼ほどヒとしてのありようを全《まつと》うした者はなかったようにすら思える。なぜなら彼は全く意識せずに動いたからである。  産霊山秘録によれば、ヒの与右衛門こと藤堂高虎は、豊臣家の血脈を一手に抹殺《まつさつ》した人物とされている。恐らく彼ほど巧妙で、そして高度な暗殺者はまたとはなかったのではないだろうか。     九  ヒ一族の故郷とも言うべき比叡《ひえ》が信長によって焼かれてから二年後、高虎は信長によって再び悲憤《ひふん》の日を迎えなければならなかった。  天正元年、酷暑の頃であった。  高虎は信長を憎んだ。憎まずにはいられなかった。彼の仕えていた浅井長政が、その八月の二十八日、慣れ親しんだ第二の故郷とも言うべき近江小谷《おうみおだに》城で自殺に追い込まれたからであった。  当特高虎は十八歳。多感な青年期であった。彼は天下一の美貌《びぼう》で知られたお市の方を、殆《ほと》んど神仏に近いまでに想っていた。人の世の愛の姿の理想を、お市と長政の睦《むつ》まじい夫婦像に象徴させていたと言えよう。  そのしあわせを、信長は鬼のように引き裂いたのである。信長の命に応じて秀吉が浅井夫妻の楽園を踏みにじり、灰にした。あまつさえ、信長は夫妻の愛の結晶、万福丸を串刺《くしざし》の刑に処し、浅井久政、長政父子のされこうべを岐阜《ぎふ》城に飾って翌る新年を祝った。  高虎の心に、底知れぬ黒い淵《ふち》が裂けたのはこの時であった。  だが時は流れて行く。高虎も生きねばならない。かつて浅井の所領であった近江長浜に秀吉が本拠を置くと、その麾下《きか》にある山内一豊のつてで、彼は秀吉の異母弟、秀長の部下となった。  そして十年。ネが動いて本能寺の変を生じた。秀吉が意外な天下を拾い、高虎の美の理想であるお市の方は北の庄で命を断った。古い傷がうずき、憎悪が復活した。  天正十三年の或る寒い日。高虎はひそかに三種の神器をたずさえて、丹波《たんば》亀山城へ向った。それはかつての光秀の居城であったが、いまは信長の第四子於次丸……秀勝が主《あるじ》になっていた。秀勝は秀吉夫妻ときわめて親密に暮し、愛されていた。が、高虎が暗い貌《かお》に何やら謎《なぞ》めいた微笑を泛《うか》べてその城を脱出したとき、秀勝はすでに居室で悶死《もんし》していた。  だが、それは秀吉にとって一時の悲嘆でしかなかった。秀吉にとって有益であった織田信長の実子との親交も、この頃にはすでに無用のものとなり始めていたからである。  この頃、秀吉は家康暗殺さえたくらんでいた。秀吉は家康を岡崎から引き出すことに成功し、大坂城に招いて秀長と共に大いに饗応《きようおう》を尽した。  大和《やまと》の宮大工中井藤右衛門は、この時京に聚楽第《じゆらくだい》を造営中であった。家康は一途《いちず》に自慢を演ずる秀吉に連れられてこの工事現場を見せられ、聚楽第に接した内野に京の別邸を贈ろうと約束された。秀長はその工事の監督を高虎に命じた。  秀吉が暗殺計画にどのような手段を用意していたか、今日ではつまびらかではない。しかし、与右衛門、藤右衛門のヒの兄弟がそこにいた限り、成功のしようがない。家康は正三位《しようさんみ》を贈られて無事岡崎へ戻っている。  藤右衛門に大きな功績があったことは確実である。なぜならその翌年、中井藤右衛門は在京のまま徳川家の大工頭として二百石を給せられ、異例の直参《じきさん》家臣となって、名も正清とあらためたのである。  が、それは傍話。  その後高虎の暗殺が急に数をます。  高虎がこの時期からしきりに豊臣一族の暗殺に力をそそいだのは、彼のお市の方に対する憧憬《しようけい》が動機となっていた。  秀吉がこの時期、お市の方の長女茶々に手をつけたからである。  それは嫉妬《しつと》をまじえていたに違いない。極端に憎む男と極端に憧《あこが》れる女がひとつに体を交えたのを知った時、高虎は雄の鬼になったのかも知れない。  表面は秀長|麾下《きか》の有能な部将として、実直な風貌《ふうぼう》にかくれながら、変質的性格を育てあげて行ったのであろう。  それを煽《あお》りたてるのが、秀吉の傍若無人《ぼうじやくぶじん》な色狂いである。茶々を側室とするだけでも発狂せんばかりの想いに駆《か》られるのに、その側室が茶々ひとりではないのだ。  その中には京極|高吉《たかよし》の娘龍子もいる。松丸《まつのまる》殿と呼ばれる龍子は、光秀に加担して近江海津城で秀吉に殺された武田元明の妻であった。殺した男の妻を側室にしたのである。しかも龍子の母は浅井久政の娘であり、茶々とは従姉妹《いとこ》に当っている。高虎には狂い泣きに泣く夜があったに違いない。  秀吉の手指の動きに、我にもなく酔い痴《し》れる女体をのろい、秀吉の権勢を憎んだだろう。高虎はその鬱《うつ》した魂をもって、一人、また一人と殺して行ったのである。  天正十七年五月。茶々……すなわち淀君《よどぎみ》が第一子鶴丸を産むと、彼はみずからの主君で、豊臣一門にあって最も人望厚い秀長を倒すことに熱中した。  彼は猿飛が開発した新しい神器使用法を用い、じわりじわりと秀長の命をいたぶりはじめた。そして天正十九年の正月早々、秀長は病死と発表された。  すぐに猶子《ゆうし》秀保が立つ。  高虎は表面この秀保をよく補佐し、ますます重用されて行った。藤堂高虎の名は山内一豊と劣らぬくらい知れ渡り、一流の武将と目されるようになったが、その秘めかくした内面では、次の犠牲者を選んでいた。  鶴丸が生れた時、高虎が秀長|呪殺《じゆさつ》を決意した心理は複雑である。恐らくは淀君の子に豊臣政権を継がせたかったからであろう。だが高虎にとって意外なことに、鶴丸は秀長の死と前後して若死してしまった。が、二年後の八月、淀君が第二子を産むと、彼は秀長を殺《や》ったと同じ手口で、秀保をも呪殺してしまった。そして第二子お拾《ひろい》……秀頼の将来に立ち塞《ふさが》る関白秀次に対しては、かつて飛鹿毛が信玄に見せた単純な呪殺法から一歩進み、猿飛が信濃|四阿山《あずまやさん》で実験していた大量暗示法を採り、関白秀次を錯乱とデマの渦中《かちゆう》に追い込んだ挙句、自分はあいつぐ主君の死に世をはかなんだと称して、さっさと高野山へ入ってしまった。  秀次はその直後、同じ高野山へ追われ、秀吉の問責《もんせき》にあって自害して果てた。  高虎が秀次自害の現場に居合せたかどうか、記録は何も残っていない。しかし、その時高野山にいたことだけはたしかなようだ。とすれば、最後の仕あげをほくそ笑んで覗《のぞ》き見ていたとしても、別に不思議はなかろう。 [#ここから2字下げ] 關白殿も、道理につめられ、しほしほと御なり候。七月十五日高野山巖寺において、その刀にて御じがい。因果れきぜんの道理、天道おそろしき事。 『太閤軍記』 [#ここで字下げ終わり]  言継《ときつぐ》卿記では七月八日の項に、その三日前から秀次と秀吉の間に不和が生じたと記されている。そのような短期日の内に、子女、妻妾三十余人をも三条磧《さんじようがわら》で虐殺する程の憎悪がどのようにして発生し得たであろう。  また、それが高虎の呪法《じゆほう》だとすれば、呪《のろ》いをかけられたのは秀次のほうであったのか、秀吉のほうであったのか。  いずれにせよ、その三年後秀吉も死ぬのである。そして高虎という人物は、秀吉に惜しまれて高野から再び豊臣の幕営に戻り、秀吉の死の床にもはべっていたのである。  高虎は豊臣家にとってのネであったと言えよう。     一〇  随風の名がこの間に変っている。  彼は産霊《むすび》の芯《しん》の山を東国に求めて跋渉《ばつしよう》を続けるかたわら、比叡に新たに組んだ神籬《ひもろぎ》にテレポートしては、この聖地に昔日の栄えをとり戻そうと努めた。  秀吉は比叡山の復活を認め、新しい延暦寺《えんりやくじ》の坊舎がそこここに増えて行った。随風はその功労により衆に推されて遂に天台座主《てんだいざす》の地位にのぼり、名も南光坊|天海《てんかい》と改めるに至っている。  天海僧正。  彼がヒとして行動する時の神籬は、信長焼打ちにも焼け残った西塔近くの瑠璃堂《るりどう》であった。彼は復興以前、唯一の堂宇であるその瑠璃堂を、焼失した飛地蔵《とびじぞう》にかわる神器の安置所とし、以来第二の飛地蔵として用い続けている。  秀吉が死ぬ二年前。慶長《けいちよう》元年の夏、彼は信濃|四阿山《あずまややま》に猿飛を訪れていた。盂蘭盆会《うらぼんえ》を過ぎた七月の下旬である。 「子らは元気かの」  天海はすっかり祖父の顔になり切って、たのしげに猿飛の一家を見舞った。「暑い季節じゃ。水当りさせぬよう、子らによう言い聞かせい」  そう言って京の菓子をゆずに渡した。 「お越しになるたびにいろいろと心づかいを……」  悪戯《いたずら》ざかりの三児をかかえ、ゆずは依然として娘のような美しさを保っていた。 「父上、もうなされますな。この辺りの子として育てておりますれば、京の菓子など奢《おご》りが過ぎます」  猿飛も祖父じみた天海の好意をもて余すように苦笑して言った。 「まあよいわ。それより冷い水が所望じゃ。ゆずどの、佐助に汲《く》んで来させてはくれまいか」  天海は猿飛夫婦の長男佐助を特に愛しく思っているようであった。どうやら今はなき飛稚《とびわか》の俤を、この孫にうつしている様子である。「麓《ふもと》の真田《さなだ》の者と親しくしておるそうなが……」  草鞋《わらじ》を脱ぎながら天海が言った。 「おかげさまで、里の者たちもようしてくれます」 「事を起すなよ。そちはもうこの土地の者じゃでの」  天海はこの年六十歳になっていた。驚異的な体力は備えていても、言いようはすっかり老人めいている。 「京のあたりの様子はいかがでござる」  猿飛が訊ねた。 「すっかり変ってしもうたわい。太閤《たいこう》は何もかも変えねば気の済まん男じゃ」 「ちかぢか御渡海の事があるとか聞き及びましたが」  すると天海は素っ気ない様子で鼻を鳴らした。 「あれがいよいよ秀吉の命とりよ」 「朝鮮《ちようせん》征伐とは大気なことではございませぬか」 「何の。気違い沙汰《ざた》よ。それよりも、たまにはワタっておるのか」 「いいえ。とんとワタリは致しておりませぬ」 「それにしては天下の動きに詳しいが……」 「真田の者から聞いております。あれで真田は仲々に敏《さと》い者が揃《そろ》うております」 「じゃそうなの。家康どのも上田のこと以来、真田は苦手ときめておられるようじゃ」  天海はそう言いながら板敷きの上に坐ると、臑《すね》の三里を拇指《おやゆび》で強く押した。 「お疲れなら、あとで佐助にでも揉《も》ませましょう」 「おお、そうしてくれ」  天海はうれしそうに眼を細めた。 「ところで今日は用事があって参った」 「ほう、どのようなことでございましょう」 「少しの間力をかして欲しい。そのほうの神器の用いようは、もう儂《わし》などの遠く及ぶところではない。このたびはその智恵をかりに参ったのじゃ」 「新しい産霊《むすび》の地でも見出されましたか」  猿飛はにこやかに言った。  これ以前にも、随風は猿飛から貴重な研究成果を教えられていた。  たとえば、今迄|漠然《ばくぜん》と産霊山の大きさをきめていたが、三種の神器の用い方ひとつで、それがかなり正確に測定できると判ったのである。それにはまず、自己が神籬《ひもろぎ》を組んで祈る時、その念力の強さを一定にする訓練を積めばよい。念力の強さと依玉《よりたま》の渦動《かどう》には正確な比例関係が存在し、ガス渦動の状態で念力の強さが判るのである。  ところが神籬……すなわち三種の神器で構成した力場の位置が移動すると、同じ強さで念じても依玉内部のガス渦動が変化する。これは産霊山中にも、その霊力の強弱差があることを意味していた。産霊の地を外れれば依玉の反応はゼロとなり、産霊山中の或る一点では最大となる。最大の渦動を示すのが、恐らくはその産霊山の中心部なのであろう。比叡山の場合、飛地蔵のあった場所よりは例の瑠璃堂の位置の方がはるかに霊力が強く、恐らくはそこが比叡の中心であると思われた。その強い霊力が、信長の放った火からも瑠璃堂だけを焼けのこらせた理由であるに違いない。 「下野国《しもつけのくに》に二荒山《ふたらやま》という場所がある。存じておるか」  猿飛はそう言われて遠くを見る目つきになった。 「覚えております。昔飛鹿毛が何度もその山を申しておりました。あれが産霊山《むすびのやま》でないのが不思議じゃと口借しげでございました」  天海はうなずいた。 「たしかに並の産霊山ではない」 「するとやはり産霊山でございましたか」 「いや、それがしかとは判らぬのじゃ。たしかに、ほかの山のようにためしても神籬《ひもろぎ》は動かぬ。じゃが、たった一度、伊吹《いぶき》が鳴った」 「その二荒山の山中でござるか」 「いかにも。見れば見るほど産霊《むすび》の地にふさわしいたたずまいじゃ。飛鹿毛が申しておったそうなが、儂も口惜しいと思うた。つい去りがたく、山中のあちこちを神器でためし歩いておると、どのようなかげんか急に伊吹が強く鳴りだしたのじゃ。だがなぜ鳴ったのか、そのわけが判らぬ。鳴った以上は産霊の地であることに間違いはないが、そのあと二度と伊吹も依玉も動かぬのじゃ。どうかの、行って一度調べてはもらえまいか。それで気づくと、どうやらこの亀甲《きつこう》地図に地形も似かよっている様子なのじゃ。ひょっとして、芯の山なのではあるまいか」  天海は正倉院にあった古代の亀甲をとりだして猿飛に渡した。 「芯の山……」  猿飛の瞳は輝いていた。今度こそ何かはっきりした手がかりが掴《つか》めそうな気がしていた。尋常でない反応を示した未知の山。もし芯の山が実在するとすれば、神器に対する反応も当然異るのが道理というものではないか。 「行きましょう。是非とも」 「おう、行ってくれるか」  父と子は、二十年ぶりでヒとしての本来の目的に協力して働くことになったのである。     一一  天海も、いたずらにヒの古風を墨守《ぼくしゆ》して山野をへめぐっていたわけではない。  天台の僧の立場から、古今の群書から産霊の秘密を探り出そうとしていた。そしてたどりついた結論は、産霊山の霊力の根源が、饋還《きかん》と言われる現象に違いないと言うことであった。  饋還。それはフィード・バックの意味である。単純に言えば、結果によって原因を改めるよう、結果をもとへ還元することを言う。 「饋還じゃ。すべては饋還ということじゃ」  天海は二荒山へ向う途中、猿飛にそう言い聞かせた。「祈りとはそもそも何であろうか。儂《わし》はそこから考えをはじめた。無垢《むく》な乳のみ児に祈りがあろうか。また、すべてに満ち足りた人に祈りがあろうか。いずれもあり得まい。所詮《しよせん》祈りとはそのようなものじゃ。無論、今日の恵みに感謝する神への祈りもあるにはある。したが、それも明日にはそうあり難いことを知っておればこそじゃ。まして明日への祈りとは、今日にさわりがあったからこそじゃ。今日の患《わずら》いが明日は癒《い》えよと、今日の餓《う》えが明日は満たされよと、生きとし生けるものはみな明日に願うのじゃ。今日の不満、今日の不安、今日の不幸があればこそ明日に祈るのじゃ。そして産雲《むすび》の山とは、そのような明日への祈りを受け集め、今日の不満、今日の不安、今日の不幸など、もろもろの不都合が明日には起らぬようとりはからう芯の山へ送るのじゃろう。芯の山は今日の痛みを柔らげ、今日のなみだをかわかし、少しずつ世を変え人を変えけものを変えて明日にはこぶのじゃ」 「さりながら父上、明日はまことに今日よりはよくなっておりましょうか。それならばなぜいくさはなくなりませぬ。なぜ人は生きつづけませぬ。祈りの最たるものは、死へのおそれではございませぬか」 「産霊の真意を人の心のみではかってはなるまい。人もけものも草も木も、命はひとつじゃ。人のいのちだけがなぜ尊いか。いとしんだ犬の死に泣けて、山犬のむくろに泣けぬのはなぜじゃ。羽根をむしって鳥をくらい、草の命を断って鍋《なべ》に煮る。鳥や草にもいのちはあろうが。鳥や草が明日のいのちを祈らぬと思うか。猿飛よ、思いあがるでないぞ。鳥や草は死したるあとのことを知らぬ。人に殺されて食われようと、焼かれて灰となろうと、死したるあとのこととその命にかかわりはない。人とて同じじゃ。人の世のいくさも、はかり知れぬこの世の掟《おきて》によるものじゃろう。牛は草を食《は》み蛇《へび》は蛙《かえる》を呑《の》む。そうせねば餓えて死ぬ。思えば生《あれ》とは哀しいものじゃ。命を尊しとするは生きておるものの考えじゃ。ことによると生《あれ》こそはこの世の穢《けが》れにほかならぬのではなかろうか、生《あれ》の穢《けが》れを清《きよ》めるため、産霊の力が働いておりますまいか。清い世にいつのことか生《あれ》が発した。世は穢《けが》れ、生《あれ》が増すにつれて穢れがこの世に満ち満ちた」 「生《あれ》なきもののみが清浄なのでござろうか」 「そのように考えてもよい。いのちあるものに不都合を訴えさせ、その不都合を少しずつとり除いて行く。生《あれ》にとって明日は今日より少しずつよくなるであろう。弱いけものは早く走ることを覚え、草は遠くへ種子をとばすすべを得る。が、その行きつく先はどこじゃ。命あるかぎり生《あれ》は死をおそれねばならぬ。まことの智恵が増せばおのればかりが生《あれ》でないことも気づく。気づいた牛はどうなろう。草を食めぬではないか。草を食まぬ牛、蛙を呑まぬ蛇、人を殺さぬ人が出たとき、生《あれ》とはいったいどう明日を願おうか……」  猿飛は少し考えてから言った。 「生《あれ》が生《あれ》を棄つるよりござるまい」 「よし。それでよい。産霊の力が明日へみちびく先きは、生《あれ》が生《あれ》でなくなる世じゃ。すべては清浄となり、穢れは祓《はら》われる」 「石、岩、砂の世になるのでござろうか」  猿飛はぼんやりと行手にひろがる岩のつらなりを眺めた。そこは二人が上田《うえだ》、小諸《こもろ》と道をとり、下野《しもつけ》二荒山へ向う途中の軽井沢《かるいざわ》近くであった。荒涼たるその世界が、祓いに祓われた究極の清浄四界とは、猿飛にはどうしても思えないようであった。 「儂にも判らぬ。じゃが人はやがてあの月にさえ駆け登るやも知れぬ。その頃には少しは判ろうが……」  天海は覚れぬことがうらめしそうであった。 「生《あれ》でない生《あれ》。それは霊《みたま》のことではございませぬか」 「今のところ、答は儂にもそれよりない」 「肉を持たぬ生《あれ》。仏法に言うてはおりますまいか」  天台座主《てんだいざす》天海は、自分の専門領域に事がまわって思わず苦笑した。 「どうやらそのような……」 「教えて下され」  猿飛は童児の昔にたちかえったように、好奇心で瞳をキラキラとさせていた。 「僧になる気かの」  天海は軽くあしらった。彼の本音は、饋還《きかん》を用いて生きとし生けるものの命を清浄に導く産霊《むすび》の力が、仏法ではどうやら掴《つか》み切れぬということであるらしい。  天海はこの時期のあと、急速に神道へ傾斜して行く。一見単純|素朴《そぼく》な神道に、天海は仏教以上の深遠さを発見したのではなかろうか。  いずれにせよ、二人はいま二荒山へ歩を進めている。二荒山は大己貴命《おおなむちのみこと》とその妃神の田心《たごり》姫、子神の味耜高彦根命《あじすきたかひこねのみこと》の三神を古くから祭神とし、専《もつぱ》ら日光権現として尊崇を受けている。恐らくその源は、他の聖地と同じようにヒの産霊山であろう。付近の産霊山が山岳信仰の対象となり、似たたたずまいの二荒山も同じ尊崇《そんすう》を受けるに至ったのだろう。しかし、今、その二荒山に芯の山である疑いが発生している。果して芯の山は実在するのであろうか。  天海と猿飛の足どりは、それを思ってかいつしか早くなっていた。     一二  昼なお暗い巨杉の森で、天海と猿飛は熱心に実験を行なっている。  ここは二荒山《ふたらやま》。  たしかに通常の産霊山とは様子が違っている。すでに充分経験を積んだヒである天海と猿飛には、この山が産霊の地であることは直感的に判っていた。  しかしどこか違うのだ。恐らく遠い古代から、数え切れぬほどのヒがこの山に疑いをいだいたであろう。しかし結局三種の神器による神籬《ひもろぎ》は作動しなかったのだ。  だが今は少し事情が違っている、猿飛という新しいヒがいるのである。  彼は三種の神器による神籬を、単純に神から伝わった呪術《じゆじゆつ》の儀式とは考えない最初のヒであったと言えよう。  猿飛には一種の科学的精神が芽生《めば》えていた。産霊のシステムを究明することに喜びを感じ、実験をするヒであった。 「この辺りで伊吹《いぶき》が鳴ったのでございますな」  猿飛はそうたしかめた。 「間違いない」  天海は自信をもってそう答えた。地形を覚えるのはヒの基本動作のようなものである。それなしにはどんな所へもテレポートすることができないのである。 「その時のことをよう思いだして下され」  猿飛はそれでも執拗《しつよう》に言った。天海は猿飛を信じ切った様子で、素直に目を閉じて記憶を呼び覚まそうとした。 「歩いておった」 「どちらの方角から参られました」 「あそこからじゃ」  天海はほの暗い巨杉の森の一角に顔をのぞかせている、白い石をめあてにその方角を指した。 「伊吹は手にしておられましたか。それともいつものように背に負《お》うて……」 「背に負うていた」 「ここで鳴ってどうなされました」 「おどろいて立ち停《どま》り、背の箱を地に降したわい」 「伊吹が鳴りやんだのは……」 「こうして」  と天海は実際にその時背にしていた箱包みをおろし、包んでいた布を解いて箱の蓋《ふた》をとり去った。 「伊吹を手に持ってぐるりとまわしてみた。それでも鳴り続けておった」 「それが急にわけもなくやんだのでございますか」 「そうじゃ」  天海は目をしばたたいて言った。猿飛はため息をついた。 「何かほかにあったはずじゃが……」  そうつぶやいた時、天海は急に若々しい大声で叫んだ。 「そうじゃ……思い出したぞ」  そして猿飛の瞳をまじまじと見据《みす》えた。「もうひと組神器を持っておった。そうじゃ。あの時ここへ入る前に、その神器を別な所へ置いて来たのじゃ」 「どこでござる」  猿飛は躍《おど》りあがって言った。 「来い。そちらの神器をあの時と同じように置いてみよう」  二人はヒ独特の風のような走り方で森を抜け出た。それは森からだいぶ離れた小高い丘の上にある神社だった。  二荒山神社。  古びた鳥居をくぐると、雨風にさらされて灰白色に古びた白木の板をめぐらせた社《やしろ》であった。天海はその裏手の本殿の扉《とびら》をあけた。 「ここへ仮りに安置して見たのじゃ。そして儂《わし》はあの箱にあるもうひと組を背にして出かけたのじゃ。森の中で伊吹が鳴りやんでからあきらめて戻ると、この神社の神官が気をきかせてのけてあった」 「つまりここに神籬を組んであの森へ入ると伊吹が鳴り、ここの神籬がとり払われると鳴りやんだということではござらぬか」  猿飛は昂奮《こうふん》して息を荒げていた。 「そのようじゃ」  猿飛は素早く自分が背に負った神器の包みを解き、本殿の中央に古式どおりの組み方で神籬を組んだ。 「見て参りましょう」  二人はまた森へ風となって走った。  森の伊吹は鳴っていた。  天海はその少し手前で立ちどまると、土に立てた唸《うな》る伊吹をみおろして泪《なみだ》ぐんでいた。 「産霊山じゃ。新しい……」  新しい産霊山の発見は何百年ぶりであったろうか。探《さが》し得るものはいち早く探し尽され、五百年、いや七百年もの昔から、新しい産霊山が見出されるということは絶えてなかった。天海の泪は、ヒの虚《むな》しくも執拗な数百年間の努力を思ってのことであろう。 「ここに神籬を組んで見ますぞ」  猿飛は堪《たま》りかねたように叫ぶと、手早く御鏡《みかがみ》、依玉《よりたま》、伊吹《いぶき》の三つを本殿のと同じように三角形に配置した。「父上、神籬へ」  天海は左手の指で目頭を軽くおさえ、ひと思いにずいとその三角形の中央へ足を踏み入れた。 「おう。身が浮くように軽いぞ」  天海はそう言った。通常の神籬にはない現象であった。すぐに猿飛が交替した。 「凶事があってはなりませぬ。父上、この地のはたらきが今少し判るまでは、ここからのワタリはなりませぬぞ」  猿飛は思案深げにそう言った。 「これが芯の山であろうか」  神籬ふたつでないと作動しない産霊山……天海ならずとも、ヒであれば誰しもそう思ったに違いない。     一三  猿飛は信濃|四阿山《あずまやさん》を離れ、二荒山《ふたらやま》の研究に没頭しはじめた。二組だけではなく、十組ほどもの神器が集められ、この不可解な新しい産霊山の謎《なぞ》に挑《いど》んでいる。  しかし間もなく慶長《けいちよう》三年の八月がやって来た。その真夏の十八日、秀吉が遂に生涯《しようがい》を終えたのである。  天海は直《ただ》ちに徳川家康と密会した。  家康自身、すでに天下の権を継承することを決心していた。 「西と東、天下をわけての戦いをせずばなるまい」  家康は爪《つめ》を噛《か》みながら言った。 「秀吉の天下は、いわば借り物でござった。お継ぎあれ、家康どの。ヒがついてござるぞ」  天海は自信満々で言った。 「勝ちたい。勝たしてくれ」  五十七歳の家康が物をせがむように天海に言う。 「われらには秘法がござる。敵の軍勢五千、一万をひとまとめに、惑乱《わくらん》させる秘法でござる」 「惑乱させるとか」 「いかにも。敵に戦意を失わしむるはいとたやすきこと。更に求むるなら敵が敵にうちかかって行くことも出来申す」  家康は疑い深く上眼で天海を見た。 「五千、一万の軍勢をか……」 「お疑いあって当然でござる。しかし今すぐとは参らぬ。いかにヒとは言え、天下を二分しての大合戦に、必ず敵をそのような破目に追いこみうるとは申しあげ切れませぬ。ヒの中からしかるべき者どもを集め、修練させねばなりませぬ」 「修練次第でそれがなるものなら……」 「一年か二年。……二年お借りいたしたい。さすれば必ず敵を惑乱させ、お味方の勝利といたしましょう」 「二年か……」  家康は目を閉じて考えていた。「丁度《ちようど》よい頃じゃの。太閤《たいこう》が死んですぐ合戦では人の心も集め難い。儂《わし》が望むのは勝ってのちの泰平じゃ。勝つだけではなく、勝ってのち千年もの楽土《らくど》を築きたいのじゃ」  天海は思った。家康の言う千年の楽土が、本当に楽土なのかどうか、それは時に聞くより判りようがない。しかし、いくさがなくなるであろうことは信じられた。一旦《いつたん》この家康に天下を握らせれば、その慎重きわまる性格が、他の勢力の擡頭《たいとう》を徹底的に圧殺《あつさつ》することは目に見えている。それでもよい。天海はそう思った。  ヒが集められた。武蔵《むさし》のヒの宿から、伊賀《いが》、甲賀《こうが》の者たちの中から、血筋をたどり選びに選ばれた者約五十人が、ひそかに徳川領|遠江《とおとうみ》の南端の浜に集められた。その御前崎《おまえざき》の浜辺一帯は、徳川の兵で厳重に封鎖され、一般の立入が禁じられた。  全国の産霊山から神器が集められ、その浜に重積された。ヒはいも虫のように這《は》い、神器を宙にかざして猛訓練にはげんでいる。  一方、天海はたびたび家康と会って来るべき東西全面衝突の日の対策を練りあげていた。 「会戦の場所をあらかじめきめて置かねばなりませぬ。そしていよいよの時、その場所がいかにも東西のなりゆきで決ったように運ばねばなりませぬ」  それが天海の主張であった。家康は重臣らと謀《はか》りに謀り、遂に天海の望む決戦場を決定した。  関ケ原であった。 「相手方は治部少輔が采配《さいはい》をとろう。とすれば、関ケ原は治部少輔にとっても又とない稼《かせ》ぎ場《ば》に思えるはずじゃ」  家康は自信深く断言した。 「なるほど。石田三成もあの辺りにくわしい育ちでござったな」  天海は同意した。  関ケ原に罠《わな》を仕かける。……それがいち早く決定しただけでも勝利は東側のものであった。 「ヒの修練は進んでおるか」 「人数ははじめの半分に減り申した」 「なんと、半分も……」  不合格で減ったのではない。かつての飛鹿毛のように、ミイラと化して死んだのである。ヒとしての血を薄くしていた者は、玄妙不可思議な産霊のエネルギーに生気を吸いとられ、たちまちミイラとなって衰死したのである。それら体質的に里者に近いヒには、伊吹による接地《アース》も余り意味がなかった。 「二十人のヒがあれば充分でござる。あとはただ、この地図に記した場所へ彼らを埋伏《まいふく》する準備だけでござる」  地図には、必ず西軍に占拠させるべき場所が定めてあった。そしてそこへ雲集した西の兵士に対し、その前面の地底へひそんだヒの特訓部隊が御鏡と依玉を捧《ささ》げ待ち、みずからを移動小産霊山として、例の集団催眠に似た意志操縦を行なうのである。 「それはもう手筈《てはず》を整えてある」  家康はニヤリとした。「誰にまかせると思うか……」  天海は言下に答えた。 「中井正清」  二人はその瞬間声を合せて笑った。歴史はすべてヒが作る。天海はそういう思いで笑った。儂は天下の大秘事を握った……もう敗れることはない。家康はそう思って笑った。  歴史は次第に慶長五年の秋に近づいて行く。高虎も一豊も、すでに豊臣を離れ、次の政権擁立に動いていた。     一四  猿飛は二荒山を駆けまわり、実験準備に大童《おおわらわ》であった。  もしここが芯の山であったなら、父天海の望む徳川幕府の設立が、天海のほんのひと祈りで叶《かな》うのである。  猿飛は時折り天海から入る東西両陣営の情報に、多少|焦《あせ》り気味であった。いくさにさせたくないのである。天海がみずからのめりこむように東西両勢力の激突へ世を引きずって行くのを、目をおおいたいような気分で見守っているのだ。  猿飛はあたかも象牙《ぞうげ》の塔に籠《こも》る学究のようであった。ひたすら俗世の平和を望み、おのれ自身はたたかわずして夢の叶う術をひらくことに没頭していた。それが結局は両者の憎しみを解消し、共に満足を与えうる道だと信じているのである。  家康はすでに、会津|討伐《とうばつ》を口実にして、大軍を東へ移動させはじめている。関ケ原を決戦場にする以上、味方となるべき大軍を東に待機させねばならなかったからである。  豊臣|恩顧《おんこ》の諸将もこの動きにまんまと引きこまれ、東へ従っている。  猿飛は二組の神籬《ひもろぎ》を設けた場合、もう一か所伊吹の嗚る地点を発見した。そこもまた神籬を置くべき場所であったのだ。しかも、実際に配置すると、三種の神器で三角形に組まれる神籬が三組重なると、そこには神籬で形成される第二の三角形があらわれたのである。猿飛はその大神籬の中心点こそ、芯の山であるような予感にうちふるえた。  家康の大軍は下野国《しもつけのくに》小山へ来て停止した。それは予定の行動であった。西の情勢はその間に決戦へ大きく傾斜している。家康の術策がそうさせたのである。  中井正清は黒鍬《くろくわ》の一隊を率い、夜ごと関ケ原のあちこちに出没して、ひそかにヒの秘密兵器を埋伏する設備をほどこしていた。忍びの宗家ヒ一族の権威と、実力者家康の権力が重なった時、諸国のヒはかつてないほどの協調を見せ、徳川方にその勢力を結集させてしまった。大坂方はその点で、まるで情報不足だった。中井正清の隠密工兵隊の活動も一切覚られることなく、作業は無事終了した。  猿飛は実験を重ねている。三組の神籬が作る大神籬の中央で、どのようにしても変化が起らないのである。彼は焦っていた。大合戦が始ってしまう。なんとか実験に成功してそれをくいとめねば……。  家康は小山から江戸城へ戻り、慎重に西側の動きをうかがっている。時が到れば一挙に発《た》って関ケ原に殺到することは目に見えている。愚かにも西方はその策にのり、毛利輝元らの諸将が続々と大坂城につめかけているらしい。  猿飛は一夜霊感を得てはね起きた。  大神籬の中央には、今ひとつの神籬が要《い》るのではなかろうか……。  彼は暗い夜の山を走って、再び大神籬を組むために、三つの小神籬を組みはじめた。第一、第二、第三と組みおえ、中央の第四の神籬を組んだ。  そして遂にその第四の神籬に入って念じはじめたのである。合戦の回避を、天下の泰平を、人々の幸福を……。  しかし第四の神籬は明らかに作動したにもかかわらず、何の変化も示さなかった。ここはやはり芯の山ではないのか。猿飛の心にそんな疑念が拡がって行く。  徳川秀忠は家康の命をうけ、下野の宇都宮から中山道《なかせんどう》を信州へ向った。そして十日後には、家康自身も遂に江戸を離れた。  猿飛は焦りに焦っている。たった一人で天下のことを相手に何ができよう、という疑心にもとらわれる。だがかつて信玄を狙《ねら》って飛鹿毛のミイラをかつぎまわった時と同じ、引きかえし得ない勢いが彼にとりついてしまっている。  猿飛は実験を中断し、再び考えはじめた。この四つの神籬に何らかの意味があるはずであった。  家康は小田原をすぎ、箱根をこえ、島田を抜けて遠江《とおとうみ》に入った。天海の指示でヒの念力部隊が関ケ原周辺にひそみはじめた。  家康は更に三州《さんしゆう》岡崎へ入る。  猿飛はアイデアを得て実験を再開した。四つの神籬から神籬へと、至近距離のテレポートを開始したのである。  テレポート……ワタリは一瞬にして終る。猿飛はそれを息つく間もなくワタリまわった。神籬の間に猿飛が見えかくれしているようであったのが、やがてどの神籬にも同じ猿飛がいるように見えて来た。  それはまさしく分身の術と見えた。  周辺の三つの神籬をせわしくワタリまわっていると、中央の第四の神籬の辺りに、霊力が凝って白く光りはじめるのが見えた。猿飛はそれに力を得ていっそうエネルギーを蓄積させる。  家康は関ケ原に近づき、明日にも決戦という緊張感が天下に漲《みなぎ》って来る。  幾日も幾日も、猿飛は我を忘れて三つの神籬をへめぐっていた。それはヒとしてほとんど恍惚《こうこつ》の境地に近かった。彼は時を忘れ、信濃《しなの》の肉親を忘れた。  が、やがて猿飛自身の体内に、いつしか時の満つる気配があった。  それは九月の、煌々《こうこう》と月の照る夜であった。猿飛は実験を終える時に至ったのを覚った。彼は中央の第四の神籬を、力をこめて念じた。  猿飛は白光のあった第四の神籬へワタった。さあ、これで何が起るか……。彼は死を決しながらそう思った。  と、猿飛の五体は盛りあがった白光の中にとけはじめ、やがてその白光のかたまりの中から、人がたに光り輝くものが、音もなく宙にとんだ。  人がたは速度を増し、一条の白銀の矢となって夜空を突き進んだ。風が失せ、空気が失せ、温度が失せた。  猿飛は一瞬青く光る地球を見た。しかしそれが彼の住んでいた地球という星であったことに、彼は気づく間もなかった。  猿飛はほんの数瞬で月にいた。猿飛は、すでに息たえていた。     一五  関ケ原合戦の詳細をここで述べることは、正史と全《まつた》く重複する。従って正史に欠けた部分のあらましを補足するにとどめる。  西軍には幾つかの奇妙な行動があった。  そのひとつ、小早川《こばやかわ》秀秋の裏切り……果してそれは裏切りであったのだろうか。松尾山《まつおやま》に陣をしいて動かず、突如|目覚《めざ》めたように大谷|吉継《よしつぐ》の兵にうってかかったのが、ヒの秘術によるものであったという証拠は何もない。  しかし関白秀次の件を知る者にとって、更に進んだ呪法《じゆほう》が、そのような大勢の人々を動かし得たであろうことは、容易に想像ができる。  また、島津義弘の一隊が、全くたたかわず、西軍の敗北が決してから、至難の中央突破による撤退を行なったことも、ヒの働きを介在させれば簡単にうなずけるはずである。  そのほか、長曾我部《ちようそかべ》盛親、吉川《きつかわ》広家、福原広俊らの行動も、予定された裏切りと見ても、ヒによる呪法の成功とみても、どちらもうなずける行動ではある。  ともあれ関ケ原の合戦はこのようにして東軍の圧勝におわり、徳川政権の実質的な開幕となったのである。  高虎はこの間の功労により、のちに伊勢《いせ》・伊賀《いが》二十二万国を領し、外様《とざま》でありながら譜代以上の処置を受けて変ることがなかった。  同じように、一豊も掛川《かけがわ》三万石から、戦後一躍|土佐《とさ》二十四万石の太守となり、幕末に至るまでその地位がゆるがなかった。  ところで、坂本落城の折り、石川小四郎の操る小舟で琵琶湖《びわこ》にのがれ、小四郎の妹千代を頼って近江《おうみ》長浜に辿《たど》りついた明智光秀の長男十五郎こと太郎五郎の行方である。  太郎五郎については、もったいぶってこの物語の後段までその人物の説明を持ちこすこともあるまい。  現代……南国市|後免《ごめん》の北約十キロばかりの国道三十二号ぞいに領石という地名がある。そこで国道をそれ、川にそってのぼると、やがて太郎五郎の墓が実在している。  墓石には明和四丁亥十一月吉日という日付あとに、それを建てた一族の名が三つつらなっているのを読みとることができる。  太郎五郎が山内家の移封にともなって、遂にこの地で生涯《しようがい》をとじたことは容易に想像がつく。  そのあたりの地名は才谷。太郎五郎の土佐における姓は坂本である。坂本太郎五郎は、今日坂本龍馬の祖として知られている。  神州畸人境《しんしゆうきじんきよう》     一  人影の絶えた街道《かいどう》に、細かな雪が舞いはじめていた。  この二、三日の急な冷え込みに、踏みかためられた街道の黒い土もとうに凍《い》てついていて、その上に舞い落ちる雪は、容易に融けようとはしない。強い北風に煽《あお》られるたび、薄く撒《ま》いた灰を吹くように、黒い地肌《じはだ》をあらわして走り去ってしまう。 「戸をしめんかい。寒《さぶ》いぞ」  薄ぎたない宿の二階で誰《だれ》かが大声をだした。その声に破れ障子《しようじ》がピシリと腹立たしげな鋭い音をたててしまる。  すすぼけた梁《はり》の芯《しん》にまでしみこんだような干物の匂《にお》いと、濁酒《どぶろく》の香が入り混った粗末な大部屋に、屈強の男たちが十四、五人ほど、所在なげにたむろしていた。  場所は越前《えちぜん》福井に程近い鯖江《さばえ》のあたり、時は元和《げんな》二年(一六一六)の初冬である。 「糞ォ、いくさはまだか……」  また誰かが荒々しく怒鳴った。  いくさは終った。大坂夏の陣はこの前年のことで、豊臣家は完全に滅亡していた。 「待て待て。いましばらくの辛抱じゃい」 「いくさはきっと起る。いや起らせてみせよう」  男たちは確信ありげにそう言った。彼らは豊臣側の残党であった。いや、戦場を稼《かせ》ぎ場と心得、たまたま敗れた西軍につき従って戦った戦国無頼の荒くれ男どもだった。  彼らが戦火の再発を確信しているのには理由があった。  この四月、徳川家康が没している。  豊臣の残党だけではない、この元和二年、戦いの火の手が今にも身近に噴《ふ》きあげてきそうな予感は、百姓町人に至るまで誰もが持っていた。  当の徳川政権でさえ、それにおびえていた。大坂方の残党が厳しく捜査追及され、秀頼の子国松が十二歳になる側仕《そばづか》えの少年とともに六条《ろくじよう》河原《がわら》で斬殺《ざんさつ》されたのをはじめ、一時は落人《おちうど》の斬《き》られること毎日五十、百を算《かぞ》え、京から伏見《ふしみ》にかけて作られた十八列の棚《たな》には、一列ごとに千人余の首がさらされる有様である。  ところがこのあたりには明らかに大坂方の残党と見える荒くれ武士の姿が多い。一応|温順《おんじゆん》にさえしていれば、黙認されているらしい。かたまりはじめた徳川の世におもねって、必要以上に残党狩りに精を出す諸国領主たちの中で、これは珍らしいことであったと言える。  越前福井城主は松平忠直である。先代秀康は家康の次男。世人は越前家を制外の家と呼んでいた。つまり、将軍の支配の外にあり、幕府の厳しい方針もこの家には及ぶことがないとされていた。  家康の孫に当る当主忠直も、父秀康の本家に対する我儘《わがまま》ぶりをうけついでいるようだった。彼は大坂冬の陣で血気にはやり、真田《さなだ》幸村に散々な目にあわされて、家康から軽挙《けいきよ》を叱責《しつせき》されたが夏の陣では逆に東軍武功第一と賞詞《しようし》を受け、名誉を保つことができた。  それだけに大坂方の勇猛さを身に沁みて知っている。徳川の勝利は、いわば番外の謀略戦の勝利であって、実際の戦場においては明らかに西軍がまさっていたと確信しているらしい。ことに真田勢に対しては立場をこえた畏敬《いけい》の念を持っている。精鋭とはあのような軍団を言うのだと信じ切っており、憧《あこが》れに近いものを抱いていた。したがって戦後の残党狩りも熱心ではなく、むしろ黙過してほとぼりのさめるまで城内に置いてやろうとする傾向があった。それは暗に豊家滅亡に至るまでの祖父家康のやり口に対する批判であったのかもしれない。  とにかく、そういうことで越前には諸国の牢人《ろうにん》が多かった。さすがに福井城下では見られないが、街道筋の宿々には、三月半年《みつきはんとし》と長逗留《ながとうりゆう》をきめこむ落武者の姿が多い。  とは言え、ただ黙認されているというだけであって、日がたつにつれ彼らの暮しは次第に苦しくなっている。そうなれば、敗残の身の置き所のなさは同じである。かと言って、気儘《きまま》に押込み強盗などを行なえば、いつ松平家の方針が硬化して、他国同様の厳しい残党狩りに狩りたてられぬとも限らない。  結局のところ、彼らの唯一の救いの手は、どこかで新しい戦火があがることだけであった。 「ええい、酒が欲しいぞ。こう冷え込んでは酒だけがたよりじゃ」  たまりかねたように一人が言った。 「ほんに今夜も冷え込もうな」  襟《えり》もとが脂《あぶら》光りした黒羽二重に黒なめしの革袴《かわばかま》、同じく黒革で仕立てた無紋の陣羽織姿という、いかにも膂力《りよりよく》のありそうな大男が、そう言って気軽に立ちあがった。 「天兵衛《てんべえ》、どこへ行く」  肘《ひじ》まくらで寝そべっている男に訊《たず》ねられて、大男は人の好さそうな笑顔を見せた。 「知れたことを。真田の仁にねだるより仕様があるまい」 「またか」  二、三人が口を揃《そろ》えて言った。 「おう。いかにもまたじゃわい。あすもまた、あさってもまた……また、また、またじゃ」  大男はおどけて言った。  彼の名は黒旗《くろはた》天兵衛。後藤又兵衛の下で一手を預っていたと称しているが、詳しいことは判らない。ただ容貌《ようぼう》、体形が見るからに豪傑といった風で、何やら気さくで善人らしいのも、ひと時代遅れた「武者」という風格を感じさせる。  黒旗天兵衛は梯子《はしご》段を降り、勝手知った様子で宿の裏手の別棟へ行った。     二  すでに底冷えのする季節なのに、女の胸乳のあたりは汗に濡《ぬ》れ光っていた。両腕を突いた彼女がゆるやかな律動をくりかえすたび、白く豊かな乳が男の胸板をかすめた。 「去《い》なせは、せぬ」  女は精一杯の自制を見せて呼吸を整え、かすれた声でささやいた。「去なせは、せぬ」  今度は目をとじて言い、耐えかねたように、ああ、と呻《うめ》くと両の腕が萎《な》えたように男の上に体を伏せ、犇《ひし》と胴を抱いて上体をそり反らせた。 「さすけ、さすけ……さすけどの」  男の名を呼んだ。歳は二十八、九だろうか。男の味を知り抜いた底深い愉悦《ゆえつ》の表情であった。肌《はだ》はどこからどこまでぬめぬめと白く、このあたりには惜しいほどの美形である。  佐助と、呼ばれた男は、のしかかった女が身を揉《も》んで悦楽に狂いはじめるのを、ひえびえとした瞳でみあげていた。時折り外科医のような冷静さで女体のそこここへ手指を這《は》わせる。そのたびに女は腰を引き、或いは肩をすぼめて必死に唇を噛《か》む。が唐突に男の掌が両の乳房を掴《つか》みあげると、細い叫びを絞りだして動かなくなった。 「佐助殿だと、なぜこれほど……」  しばらくして男の体からすべり落ちた女が甘えるように囁《ささや》くと、男は薄暗くなった障子のあたりにちらりと眼を走らせながら、 「身の程も知らず、上乗りに痴《し》れ狂うからだ」  とつぶやくように言った。 「ずっとこうしていたい」 「そうは行かぬ。客らしい」  女は驚いたように起きあがった。しどけなくはだけた衣服をつくろい、髪に手をやる。佐助の言葉どおり、足音が近づいて部屋の前でとまった。 「黒旗天兵衛でござる」  そういう声がすると、女は聞えよがしに、「まあまあ、まだ火も入れませいで……」  と言って燧石《ひうちいし》を鳴らした。 「遠慮は要《い》らぬ、中へ……」  佐助が声をかけた。いつの間にかうつぶせになり、頬杖《ほおづえ》をついていた。天兵衛が障子をあけると、ともったばかりの灯火がゆらゆらと揺れた。女は気恥かしげに天兵衛に黙礼すると、髪に手をやりながら入れ違いに出て行った。 「なんと、この家のあるじではござらぬか」  天兵衛は呆《あき》れたようにそれを見送った。 「酒か……」  佐助がものうげに言う。 「いかにも、こう冷え込んでは無理もござらぬ」  すると佐助の右手が動いて天兵衛の前に女持ちの銭袋が置かれた。 「それきりじゃ」 「これきりとは……」  天兵衛はかなり入っていそうな袋を手にとって、重さをはかりながら問い返した。 「そういつまでもお主たちのために、この身を女たちに売ってもおれぬ」 「相済まぬ」  天兵衛は素直に頭をさげた。が、顔は笑っていた。「だが佐助殿が体を売っているという言い様は聞えませぬぞ。女たちのほうから忍んで来るのではござらぬか」 「同じ事だ。この身の精が銭にかわる」  天兵衛は大声で笑った。 「よい商売じゃ。出来れば儂《わし》がかわりたい」  そう言って高笑いをつづける天兵衛のひげづらを眺《なが》め、佐助は陰気な苦笑をした。  歳は三十|丁度《ちようど》。彫りの深い鮮《あざ》やかな男ぶりである。 「おぬし、これからさきのことはどうする」 「できれば佐助殿と発《た》ちたいが、そうもなるまい……」  質問のようであった。しかし佐助は黙って答えない。 「とすれば、ここにずっと居すわるよりあるまいが、ともかく今日まで、よう合力《ごうりき》してくだされた。礼を申す」  天兵衛の言うとおりであった。大坂冬の陣の直後、この越前へ逃げ込んだ敗戦の武士たちは、多かれ少なかれ佐助の施しを受けて暮していた。  佐助という男が真田幸村の隊に所属していたことはたしかなようだった。戦後真田勢の戦いぶりが高く評価され、広く庶民の間にまで喧伝《けんでん》されてくると、佐助は越前にいる残党の中できわだった人物のように扱われはじめた。二、三度、この街道筋で正体不明の武士が人知れず斬殺されるという事件が起ってからは、その佐助が真田十勇士の一人、猿飛佐助と同一人物であるという噂《うわさ》がひろまり、斬られたのは彼を狙《ねら》った徳川方の忍者だと信じられるようになった。  佐助の徹底した一匹狼《いつぴきおおかみ》ぶりが、その噂に輪をかけたようであった。わずかに、この河端屋という旅籠《はたご》に同宿する黒旗天兵衛らが、直接佐助と接触しているにすぎない。 「ところで佐助殿。家康めが神になるという噂をご承知か」  天兵衛は真面目な表情で言った。 「東照大権現《とうしようだいごんげん》か」  佐助は腹ばいのまま、眼を細めて答えた。「東照大権現……なんと家康めが権現になるとか」  佐助は淡々と言った。 「大明神では験《げん》が悪かろう。豊国大明神のことがある」  秀吉が神格化した正一位豊国大明神は、すでにその社殿を破壊されてしまったという噂であった。従って家康を神格化するとしても、少くとも大明神にはできない道理だ。天兵衛は暗い顔になってあごを撫《な》でた。 「神になられては殺せぬ」  それを聞いた佐助は珍らしく声をたてて笑った。     三  黒旗天兵衛が去って間もなく、佐助は旅仕度を整えて寒風の吹きすさぶ闇《やみ》の中に消えた。その足どりは街道を避けるらしく一旦《いつたん》東へ向ってから急に北上をはじめる。  いずれにせよ山中の道なき道である。その暗い道を飛ぶように走っている。  噂どおり、彼は真田《さなだ》勢の中で猿飛の佐助と呼ばれた男である。しかし、あの真田丸の三の丸に籠《こも》った真田忍組三十人衆とは立場を異にしていた。真田の禄《ろく》を食んだこともなく、昌幸、幸村らの支配を受けたこともない。ただなんとなく真田本家の動きに同調して働いていた、いわば協力者であった。  佐助は本来姓を持たない。猿飛は父の名である。彼の一家は上信国境の四阿山《あずまやさん》に住み、神族の末裔《まつえい》であるヒの者を自称していた。  父の猿飛は彼がまだ十歳の少年の頃、飄然《ひようぜん》と旅に出てそれきり戻らなかった。従って近くに住む真田や海野《うんの》と言った一族と接触したことは、彼の一家が生計をたてて行く上で、ごく自然の縁であったと言える。  結局佐助は真田忍者群の技術顧問といった立場であったが、戦後一年もたった頃になって、急に身辺に危険が迫りはじめたことを知ったのである。  人の噂は無責任なようでいて、案外真相を衝《つ》いているものだ。たしかに佐助はこの越前へ来てから、前後三回ほど人を斬っている。  三回とも暗夜の襲撃であった。相手の正体は知れずとも、忍者であったことだけはたしかである。佐助はそれが自分の出自にかかわることらしいのを直感していた。  ヒの者には異常な忍びの技が伝わっている。十歳の頃までに、佐助は父の猿飛からその基本をあらかた授けられていた。猿飛行方不明のあとは、近くの鳥居峠《とりいとうげ》に住む白雲老人から、さまざまな高等技術を学んだ。  白雲老人は佐助を宗家の嫡男として遇し、決して粗略に扱うことがなかった。白雲老人によれば、佐助は諸国に散在するヒの宗家の正統な後継者であり、老人自身は信濃《しなの》における分家の長といった立場らしかった。  ヒには敵がいるらしい……佐助はそう感じている。真田家の勇名が高まるにつれ、猿飛の名もいつとはなしに世上へ洩《も》れている。敵はそれがヒの宗家であることを知って抹殺《まつさつ》しようと企んでいるのだろう。  今の佐助にはその程度のことしか判っていない。ヒについて詳《くわ》しく知る気を起したときは、すでに母親のゆずも白雲老人もこの世を去ってしまっていたからである。 「……糞ォ、いくさは起らんのか」  あの宿の二階で日に一度は必ず聞けるその愚痴に似た叫びが、佐助自身の体内にも同じように湧《わ》き出しているのだ。いくさとは不思議なものである。あれほど悲惨でおぞましいものなのに、一旦戦火が遠のきはじめると、生死の境をくぐり抜ける緊張感が、仲間との連帯感が、そして何事もまず生きのびるためという目的の明快さが、たとえようもない甘美な記憶となってよみがえるのだ。平和な日々とはなんと退屈なことであろうか。まして敗残の身には、その退屈さが処を得ぬままに勢いをまし、心を蝕《むしば》み、事あれかしと祈るようにさえなるのである。  佐助は闇の道を疾走《しつそう》しながら、追われて逃げるとは露ほども考えていなかった。むしろ彼はこのひと走りを正体不明の敵に対するあからさまな挑戦とし、敵を持つ幸福感に酔っているようだった。  いったい、この世の忍びの者で、このように速く走れる者がいるだろうか。背負った箱の中にあるヒの神器が発する霊力に抗し得る人間が存在するだろうか。……そういった彼の誇りが、足どりをいっそう軽やかにさせていた。  佐助は枯葉を巻きあげる北風と一体となって奔《はし》った。彼がめざすのは福井城東方の名刹《めいさつ》、吉祥山|永平寺《えいへいじ》であった。そこは同時にヒの秘境、産霊山《むすびのやま》のひとつでもある。佐助はその永平寺からいずこへかワタルつもりでいるらしい。ヒの者だけに許されるワタリ……すなわちテレポートをしてしまえば、それを追跡できる敵は存在し得ぬはずである。  佐助は疾走を続ける。流れをとび、森を抜け、闇から闇へ闇の一部がちぎれ飛んだとも思える速さで駆けている。それはあたかも、永平寺の守護神である韋駄天《いだてん》の姿であった。  が、その足が永平寺をまぢかにして急に停《とま》った。  なぜ停ったか、佐助にとって特に理由はない。一種の生理的現象であると言えよう。彼に遺伝された特異なヒの体質が、前方の危険に対して無意識の内に足をとめさせたのだ。  佐助はおのれの本能に対して忠実だった。闇の一部と化して気息《きそく》を整え、前方を観察した。何も見えぬ筈の闇の中に、敵の気配が数多くうごめいていた。終夜読経する僧のものであろうか。音もなく小さな白光が、かぼそい一条の筋となって虚空《こくう》に消えた。もっとたよりなげな白光は、あちこちから流星のように発しては消えている。  ヒだけに視《み》ることが許される白銀《しろがね》の矢であった。そしてそれを視ることができる人間だけが、三種の神器によるテレポートを許されているのだ。  一人のヒとして動いていた佐助に、この時代の人間としての理性が舞い戻って来た。……なぜ産霊山をおしつつむような包囲網がしかれているのだ。気配からすれば敵は明らかに忍者である。このように大量の忍者群を動員しうる者は誰なのか。佐助は眉《まゆ》をひそめてそう思った。  とにかく敵は産霊山を封鎖している。となれば、無理にも封鎖を破ってみせよう。  俗界に介入せぬ筈のヒに、戦火をくぐり抜けた荒々しい戦国武者の血がたぎり、佐助は図太い微笑を泛《うか》べた。     四  佐助は闇《やみ》の中で戦闘の準備をはじめた。  まず腰の刀を抜き取って、普通のものに見せかけるための紙製の鞘《さや》を棄てた。だが彼の刀は抜身になっても光らない。漆黒《しつこく》の煤《すす》ごしらえであった。直刀の刀身の先き三分の一は諸刃《もろは》になり、先端が鋭くとがっている。残り三分の二は急に肉をまし、刃がない。つまり打撃と刺突の具になっている。  佐助はそれを鳥居峠の白雲老人から譲り受けた。老人は彼に与える時、それがヒの三種の神器のひとつである伊吹を鋳直して作ったものだと教えた。  誰《だれ》がいつ、どのような方法で鍛えたか知れぬが、その剣は恐るべき威力を秘めていた。多分|隕鉄《いんてつ》で作ればそのような剣になるかもしれない。佐助の剣は触れ合う敵の刀をことごとく打ち折った。三分の二に刃が引かれていないのは、そのためであるらしい。  次には帯に寸鉄《すんてつ》をはさんだ。寸鉄は鉄柱、鋲《びよう》などとも呼ばれる長さ五寸程の鉄棒である。太さは径五|分《ぶ》ほどで、棒の中央に指輪がついている。これを中指にはめ、棒を掌に入れれば、危急の場合白刃を受けることができ、またその鋭い先きを拳打《こぶしうち》の要領で突き出せば、敵の肺腑《はいふ》をえぐることもできる。  背に負う箱はそのままである。箱は木製だが筋金が縦横に入り、至る所に鋲が打ってある。矢も槍《やり》も太刀《たち》も、背後からは何の役にもたたない。箱の底にはごく小さな星形の車剣《くるまけん》が二十枚ほど仕込んである。  最後に佐助は懐《ふところ》から黒い布をとりだして枚数をたしかめ、丁寧《ていねい》に懐中へ戻すと行動を起した。  佐助は体を低くし、一枚の黒布をかかげて横走りに警戒網へ接近して行く。ごく薄い黒羽二重《くろはぶたえ》の幕は佐助の走る速さに煽《あお》られて、不定形の影となってみえかくれする。  人の気配を感じるとは、人が無意識の内に見慣れたパターンを認め、警戒心を呼びさますことである。だが不定形の黒い影は、人間の意識に人間以外のパターンとして送り込まれる。佐助はよく訓練された忍者たちの気配察知圏を、一枚の黒い布でのり越えてしまった。  佐助は忍者が気配で敵を察知する距離を正確に把握《はあく》しているらしい。或る線でぴたりと動きをとめると、諸刃の剣を置き、箱の底から車剣を一枚抜き取って、今までかざしていた黒布でつつんだ。  気合いをためてそれを力まかせに遠い樹上へ投げた。黒布のつぶてははたはたと音をたてながら飛び、車剣がカツンと枝にささる音をひびかせた。と殆《ほと》んど同じ一動作で、佐助はもう一枚の車剣を抜きだして、一番近い敵の喉首《のどくび》めがけて投げつけた。黒布の飛び出した地点を認め、つられて屋形《おんぎよう》をといた忍者は、喉に星形の車剣を突き立てて爪先《つまさ》きだちにのびあがり、喉をおさえてそりかえるとあおむけに倒れた。  忍者たちは一斉《いつせい》に緊張して樹上をうかがった。彼らにとって仲間を倒した敵は樹上にあるとしか見えなかった。真の所在を知っている唯一人の忍者は即死し、おとりの黒布が濃い闇の中で気配を作りだしている。黒布はそのためにいつも佐助の肌《はだ》につけられていて、鋭敏な嗅覚《きゆうかく》にはいや応なくその匂《にお》いがとびこんでいる。  ツツ、ツツ……と、かすかな歯を鳴らす音を合図に、忍者たちは音もなく黒布のはりついた樹のあたりを包囲した。見事な連繋《れんけい》動作である。だがその頃、佐助は巧みに忍者の動きを迂回《うかい》しながら、警戒網の内側へしのびこんでいた。  カツン、カツンと乾《かわ》いた音が、樹の繁みの中で五、六回も続けて鳴った。  伊賀《いが》か……。  佐助はその動きようから察して、心の中でそうつぶやいた。伊賀を動かしているとすれば、敵はやはり徳川であろう。しかしなぜ徳川がヒを追うのか、その理由が判らなかった。  いま相手にしている忍者たちが、その理由を知っているはずはなかった。佐助はすでに産霊山に足を踏み入れていることだし、このままワタってしまえばそれでよかったが、彼の功名心に似た心理がそれをさせなかった。  伊賀者たちを手玉にとってくれよう……そう思った。そうすることで敵を挑発し、動きを露骨にさせて、ヒの宗家たる自分を追う理由を知ろうと考えた。  彼らの言う空蝉《うつせみ》の術にかかったと知って、伊賀者たちはうろたえ気味《ぎみ》に散った。気配を殺し、敵の動きがあらわれるのを待つつもりらしい。だがその中の一人が、佐助の位置からよく見えている。  佐助は素早く箱を外しそれを見えている敵に向けると、鉄砲のねらいをつけるような目付きで睨《にら》んだ。  箱の中には三種の神器が、いつでも作動できるようにセットされていた。父猿飛の研究を、子の佐助がいっそう完成させていた。  依玉を手前に、御鏡《みかがみ》を先きにセットした箱の中で、佐助の念力が依玉《よりたま》を明滅させ、テレパシーがその男をとらえた。  突然男は八方手裏剣を飛ばした。彼は三度投げ、そのたびに三人の男が闇の外へはね起きて死んだ。  ツツ……と佐助のテレパシーに捕えられた忍者は、伊賀特有の歯を鳴らす合図を送りながら立ちあがると忍刀をきらめかして手近の味方に斬りかかった。それが伊賀者たちには、素早く仲間に形を変えた、敵の変身の術と見えたのだろう。たちまち、五、六人が躍《おど》り出て凄惨《せいさん》な死闘となる。忍者には最終的に、仲間も敵でありうるという観念がしみついている。こうなっては念力で操る必要もない。佐助が箱を背負ったあとも、死闘が続いていた。  刃の触れ合う音を聞きつけて、忍者たちが飛ぶように集ってくる。それは佐助の計算外の数であった。     五  佐助の剣は触れ合う忍者たちの刀を次から次へとへし折って行く。  忍者にはそれが単に鉄の力の差であるとは信じられない様子であった。何か得体《えたい》の知れぬ術が、佐助の剣に籠《こも》っているのだと考えるほうが、忍者たちにとってはるかに合理的であるらしい。しばらくすると刀槍《とうそう》で打ちかかってくる者は一人もいなくなった。  佐助は包囲され、じっと相手の出方をうかがっていたが、急にとび出すと狂ったように敵のどまん中にとび込んで行った。  火縄の匂いを嗅《か》いだのである。忍者たちは佐助の剣をおそれてさっと退いてしまう。彼はそうして出来た空白地帯に躑躅《つつじ》の茂みがあるのに気付くと、一気に跳《は》ねてその中へ身をひそめた。  静まり返ったあたりの空気に、火縄の匂いが強まって来る。大きな躑躅の茂みが揺れ動くと見えた一瞬、鉄砲の音が闇をつんざいて一発、二発、三発……。たしかな手応《てごた》えがあって茂みの中の動きがとまった。そろり、そろりと忍者たちの輪がせばまる。  佐助は躑躅の茂みの中で念力を凝《こ》らしていた。箱を両手に持ち、敵の包囲を瓦解させる瞬間を待っていた。弾丸はたしかに三発とも茂みの中に命中したが、枯枝にふわりとのせかけた数枚の薄い黒羽二重が、見事にそれを防ぎ落していたのだ。  この時代の銃弾は堅い板ならかなりの厚味を貫通する。しかしふんわりとたれた黒羽二重に当ると、その薄い布をまきあげ、つつみこまれ、ぽとりと地に落ちてしまうのだ。  忍者たちが迫って来た。彼らは言い合せたように奇妙な四角い箱を口につけていた。忍び衣裳《いしよう》をまとった男たちがそうして近寄るさまは、どこかガスマスクをつけた近代兵士のように不気味なものであったに相違ない。  格闘戦に備えた砂|迅雷《じんらい》である。箱の中は金剛砂《こんごうしや》を唐辛子《とうがらし》で煮つめたものと、猛毒の馬銭《まちん》を加えた目潰《めつぶ》し用の砂である。箱の一端に真鍮《しんちゆう》の吹口があり、前方に噴出孔がある。熟達した術者は、二、三間の距離をとばすといわれ、甲冑《かつちゆう》武者同士の格闘戦が多かった頃から存在する、単純だが効果的な攻撃兵器であった。  五間……と佐助は間合いを踏んでいた。その五間に敵が迫った時、彼は立上ると一気に念刀を発しながら体を一回転させた。  あたかも機銃|掃射《そうしや》であった。しかもとび出して忍者たちに命中したのは、佐助の習練を積んだ念力である。忍者たちは強敵に忍び寄ることで茂みの中央に精神を集中させていた。注意を一点に集中した彼らの脳に、佐助の放った恐怖が突きささり、爆発した。いったい忍者たちは、それで何を幻覚したのだろうか。  多分忍者たちは、一人一人の心の底に秘めた恐怖の象徴を実際に視《み》たのに違いない。それは牙《きば》をむいた竜であり、ぬめぬめとしたなめくじであり、剛毛《ごうもう》に掩《おお》われた物《もの》の怪《け》であったろう。彼らは一様にギャッと叫び、踵《きびす》を返すと殆んど発狂状態で逃げはじめた。パニックがすべての忍者におそいかかり、算を乱して遠のいて行く。  佐助はやっと満足したような表情を見せ、左手に箱、右手に剣をさげ、ゆったりとした足どりで、三種の神器を安置する承陽殿《しようようでん》へ向って行った。  邪魔な僧たちを睡《ねむ》らせることは、佐助にとって造作もない仕事だった。彼は承陽殿に入ると、開祖の道元《どうげん》禅師以来、その用途を知る者もないヒの神器を三つとり揃え、三角形に配置して神籬《ひもろぎ》を組むとその中央に立った。  彼は今|信濃《しなの》の善光寺を念じている。依玉《よりたま》が明滅し、その内部にガス渦動《かどう》が始っていた。伊吹《いぶき》が唸《うな》り、鏡の中央にテレポート先きの光景が見えた。  佐助は伊賀者相手の圧倒的な勝利に少々|奢《おご》っていたらしい。先方の様子が御鏡《みかがみ》の中央に立体映像となって定着するやいなや、いともかんたんにワタろうとした。  が、ワタリかけた同じ瞬間、佐助の体内に宿るヒの本能がそれをおしとどめた。善光寺の御鏡の前に、強力な虎《とら》ばさみの罠《わな》が仕掛けられているのに気づいたからである。  佐助は三つのことを一瞬でした。  善光寺へテレポートしようとし、虎ばさみの危険に気づき、永平寺へ戻ろうとした。その精神のはげしい動きの中で、彼は強い幻覚を持った。それは千年もたつかと思われる程の長い時間に感じられた。その間彼は乳白色に輝くなめらかな壁面の空洞《くうどう》に静止していたのだ。そこには過去もなく、未来もなく、およそ人間の理解を超えた絶対境であったようだ。  が、実際には、次の瞬間佐助は永平寺の承陽殿へ戻っていた。ひどい精神の疲れを感じ、彼は神籬の中央へへたりこんでしまった。  ヒの歴史はじまってこのかた、ワタリの中間点で原点へ引きかえしてきたのは、恐らく佐助がはじめてであろう。だが彼はまだそのことに気づかない。ただ、虎ばさみの罠を仕掛けた相手が憎かった。それを一瞬見破って難をさけた自己の反応に誇りを感じた。 「なんの、子供だましな……」  佐助はそういうと建物から走り出し、竹を二本手早く切りとってくると、みるまに竹馬をこしらえた。 「子供だましには子供だましじゃ」  佐助は愉快そうに笑い、竹馬に乗って再び神籬へ入った。  依玉が再び唸《うな》った。そして佐助は竹馬にのったまま善光寺の御鏡の前へ転移した。虎ばさみがすさまじい音を発して竹馬を噛み、佐助は飛燕《ひえん》のように戸外へ走り出るとここにも張り込んでいた数人の忍者を刺し殺して、信濃の闇へとけ入ってしまった。     六  佐助の敵を知りたいという欲求は、もはや遊び半分のものではなく、命がけのことになっていた。正体不明の敵は、なぜか彼の行くさきざきを予想しているらしいのである。  燻《いぶ》り出された……佐助は屈辱を噛《か》みしめながら、そう思わずにはいられなかった。  あの宿を出たのは飽《あ》く迄《まで》自発的行動であると思い込んでいたが、ひょっとすると何者かが根気よくそのように仕向けていたのかも知れない。越前においていつの間にか誇大に喧伝《けんでん》されはじめた猿飛佐助の虚名。刺客にしては案外もろかった三度にわたる忍者の襲撃。永平寺に張られていた厳重な警戒網。善光寺にしかけられていた虎ばさみの罠《わな》。……考えてみればそれらは自分の行動を予測した上でのことであったとしか、佐助には考えようがなくなっている。  恐らく、黒旗天兵衛らと別れたあと、北の永平寺へ向わず、そのひとつの南の産霊山である気比神宮へ向ったとしても、多分永平寺同様の警戒態勢がしかれていたに相違ない。また、そのどちらかにせよ、警戒網を突破してワタる先きは、今度の場合善光寺か諏訪《すわ》神社のどちらかにきまっていた。善光寺でなく諏訪神社へワタったとしても、やはり虎ばさみや伊賀者の罠が待っていたことだろう。  無気味な相手である。佐助が動く幾とおりかの形を予測し、その要所要所に網を張っているのだ。だが、神族の末裔《まつえい》であるにせよ、何の政治的色彩も待たぬ一介《いつかい》の野人《やじん》に、誰がどういう理由で追手を向けているのか。それが佐助には判らなかった。  だが身を守るためには是非とも知らねばならない。そのためには自己の出自《しゆつじ》に関してもっと深く知る必要がある。それを教えてくれる人間は、三国《みくに》山地のどこかにひそむ、白雲老人の一族しか佐助には思い当らないのだ。  だから佐助はその方向に足を向けている。しかしいきなり善光寺平から四阿山《あずまやさん》へ駆け登ることはしなかった。ここまで行動が読まれている以上、自分が四阿山へ姿を見せることは当然敵の計算に入っているはずであった。佐助は慎重に道を選び、千曲川《ちくまがわ》ぞいに大きく迂回《うかい》しながら南へ向った。どこから山へとりつくかはきめず、敵の気配を探《さぐ》りながらゆっくりと進んだ。  冬枯れの河原に、春を思わせるような陽がさしていた。敵らしい動きはなく、この季節にしては珍らしくのどかな日和《ひより》であった。  佐助はその昼さがり、河原に腰をおろし、目的の山を背に流れの音に聞き入っていた。  母親のゆずもヒについてそう詳しくは知っていなかった。ヒに関する知識のほとんどは、十歳の年までに父の猿飛から聞かされたものだった。……いったいその父はどこへ消えてしまったのだ。  白雲老人は父猿飛が四阿山へ呼び寄せた、佐助の体練相手であった。猿飛行方不明のあとも、老人は三国《みくに》山地をまたにかけて佐助を引きまわし、体練をしてくれた。ワタリの術も老人が教えてくれた。  神器の工夫は母の与えた助言から、佐助自身がはじめたものである。動物好きの母は、夫が失踪《しつそう》したあとも、佐助に山の生き物を四阿山へ呼び集めさせることを好んだのだ。佐助は母を喜ばせるためにけもの寄せの術を行ない、やがて次々にいくつかの神器の使用法を会得した。  が、すぐに戦火が信濃にも迫った。関西へ向う徳川秀忠の大軍を真田一族が信濃に釘《くぎ》づけした時、まだ十四歳の佐助はその果敢《かかん》さに魅《み》せられた。  真田家と歩調を合せた生活が始り、十五年間を佐助は幸村らと共にした。男としてひどく充実した歳月ではあった。しかしその緊張した戦いの間に母は死に、二人の弟たちに父親がわりとしてヒのありようを教えることもなく、彼らは平凡な里者としての人生を踏み出して行った。四阿山の家は住む者もなく荒れはてて狐狸《こり》のすみかとなり、訪れれば心がいたむばかりであった。自然足も向かず、忘れよう忘れようとする心が強くはたらいていた。  白雲斎と自称する戸沢の老人も、所詮《しよせん》は体練の教師であって、父の役を果たしてはくれなかった。飛騨《ひだ》山脈以東の筑摩《ちくま》山地から三国山地一帯を支配するヒの長《おさ》と言っても、すでにヒ自体が滅亡に瀕《ひん》しており、宗家との関係にもへだたりがありすぎた。それに、血の気の多い行動派タイプの佐助にとって、何かと言うと地の底へ沈んでしまいそうな気配を示す、陰気な白雲老人は大の苦手であった。  おまけに白雲老人は、信濃におけるヒの長と言っても、ワタリの術を心得たいきのいいヒの者を掌握している様子は全くなく、彼を崇《あが》める人間と言えば、ほとんどが盲人かそれに近い不具の人々であった。佐助にとって、戸沢白雲斎とは要するに世捨人の一人としか思えなかった。  いったい自分は何者なのか。なんのためにこの世に生を享《う》けたのであろうか。……佐助は戦火と謀略に追われた青春期を過したあと、泰平のきざしの見えはじめたこの時になって、はじめてそうした疑問を抱いたのである。  その佐助の背後につらなる土手の道を、七、八人の盲人が一列になって歩いていた。顎《あご》を突き出し顔を宙に向け、腰を引いてこまかく杖《つえ》を動かしながら、それでも一歩一歩確実にその列は進んでいた。  佐助はふとふりかえって盲人たちを眺《なが》めた。青い空にあざやかに浮きあがった土手の上の盲人たちは、空を仰いで屈託《くつたく》なげに命のうたを唄っているように見えた。  あれも命の過しようのひとつか……佐助はそう思った。  なぜ生きる。なぜ生きねばならぬ。なぜ命はある。盲《めしい》てもみずから死をえらぼうとしないのはなぜだ。生きることに何があるのだ。佐助にとって、それは大きすぎる問いだったかもしれない。     七  佐助はおのれの気分にまかせて、どうやら迂闊《うかつ》な観察をしていたようであった。  盲人たちは必死に逃げていたのである。追手は山歩きの仕度も厳重な三人の武士たちである。  武士たちは土手の反対側を駆けていた。佐助が気づいた時、三人は土手の上にとびあがり、一斉に白刃をきらめかした。佐助の腰が河原の石から浮いた時、すでに第一の犠牲者が血けむりをあげていた。武士たちの刃のふるいようは、明らかに合戦ずれのしたすさまじさであった。三人がそれぞれ二動作で、あっという間に六人を倒した。相手は盲人である。林に斬りこむほうがまだむずかしかろう。  それでも盲人二人が土手下へころげ落ちてのがれた。一人は杖を失い、四つんばいになって悲鳴をあげている。  佐助は走った。武士たちも駆け降りてくる。杖を失った盲人が斬られた。その刀を、佐助の剣が鍔《つば》のあたりから叩き折り、鋭いきっさきがそのまま伸びて武士の喉笛《のどぶえ》をかき切った。 「邪魔だて無用ッ」  武士の一人が身構えて叫んだ。佐助の前にたちふさがり、その背後で残る一人が盲人に刀をふりあげた。佐助の右手が柄《つか》から離れ、背にした箱の底をひと撫《な》ですると、鈍い光が糸をひいて、盲人を斬ろうと背を見せた武士の盆《ぼん》の窪《くぼ》へとんだ。その隙《すき》を狙《ねら》って正面から、実戦一点張りの長大な剛刀が佐助の頭へふりおとされる。佐助は左手をあげ剣を頭上に横たえて身を沈める。キーンという音と鉄臭《かなくさ》い匂いが発し、相手の刀身の三分の一が折れて飛んだ。その折れた刀をにぎりしめ、構え直す顔に恐怖の色が湧いている。盲人は襲撃者の体を背に負って、その下から這《は》い出そうと懸命にもがいていた。首のつけ根に深々と車剣を打ちこまれた男は、盲人の上にかぶさって烈しく四肢を痙攣《けいれん》させている。 「何者だ」  佐助は剣をつきつけながら、ついそう訊ねた。忍者ではないのである。相手はじりじりと踵《きびす》を刻んで退《さが》って行く。「言え。言えば命はとらぬ」  蒼白《そうはく》な顔になってはいたが、相手は鼻で笑って見せた。 「言わねば河原の無縁仏ぞ」  佐助が一歩前へ出て言った。「なぜ盲人を斬る。これほど後生の悪いことはあるまいが」 「た、助けてくだされ」  生き残った盲人が地に尻《しり》をぺたりとつけたまま言った。腰が萎《な》えてしまったらしい。 「安心せい。もう助かっておる」  折れた刀を構えた武士は、執念深くその盲人を襲う気配を見せた。佐助に斬られても盲人だけは死なさねばならぬらしい。佐助はその折れ残りをもう一度下から払いあげてやった。刀身は更に半分が折れ飛び、男の手には元の三分の一が残っていた。 「よい。敗けたぞ」  武士は唇を歪《ゆが》めて言い、諦《あきら》めたように構えをとくと、左手首を返して刀の折れ口を見た。「関ケ原以来の功名道具であったのに」  武士は命よりその長大な刀を惜しむ風だった。 「なんで盲人を斬った」 「その者どもは鹿沢《かざわ》を荒しましたのじゃ」 「鹿沢を……」  佐助は眉をひそめた。鹿沢は彼がこれからたずねようとしている場所のひとつであった。  信濃国《しなののくに》鹿沢の湯と言えば、古くから眼病に卓効《たつこう》があることで知られた温泉である。目あきに用のある土地ではない。 「賊か」  佐助はなじるように言った。盲人の銭がめあての盗賊なら、言を違えて斬ってもよいと思ったらしい。  が、相手も流石《さすが》にその疑いだけは受けたくないらしかった。 「違う」  憤然と言った。 「賊じゃ。人さらいじゃ、この者の仲間が大勢鹿沢に押し寄せて、盲人という盲人を山へ連れ去りましたのじゃ」 「なぜそんなことをした。どうやら言葉づかいは奥州《おうしゆう》のようだが」 「黙れ。もうよいわ。早う斬るなら斬ればよかろう」 「奥州じゃ、奥州じゃ。それもれっきとした伊達《だて》のさむらいじゃ」 「うるさい、どめくらっ」  武士は急に立って脇差《わきざし》を抜き、喚《わめ》きたてる盲人に斬りかかろうとした。佐助の剣が一瞬早くその胸に突きささった。突きさされたまま、武士は脇差を自分の腹につきたてた。 「武士のなさけ……忘れて下されい」  そう言い残して死んだ。 「死にましたのか」  盲人がふるえ声で訊ねた。 「おう」 「仲間の者はどうでございましょう」  佐助はあたりを見まわして答えた。 「生きているのはおぬしだけのようじゃ」 「むごいことを……」  盲人ははじめて泣きだした。「神も仏もあるものか。鹿沢の湯は盲人のただひとつのたのしみでございますぞ。三年に一度、五年に一度、稼《かせ》ぎためたわずかな金を散じてたのしむ盲人の場所でございます。何不自由ない目あきどもが、なぜその場所で荒れ狂うのでしょう。なぜ命からがら逃げ出した者のあとまで追って、斬りかからねばならぬのでございます。お教え下され。お教え下され」 「伊達家のさむらいが盲人を襲ったと、世間に知られたくなかったのだろうな」  佐助は割腹の形を選んだ武士の死骸《しがい》を見おろしながら、つぶやくようにそう言った。     八  現代。群馬県|渋川《しぶかわ》、長野県から国道一四四号で上田《うえだ》方面へ向うと、田代《たしろ》湖の先きから烏帽子岳《えぼしだけ》方向へ登って行く道がある。その道の国道をそれてすぐに新鹿沢《しんかざわ》温泉があり、その先き標高千五百メートルばかりの所に、鹿沢温泉がある。鳥居峠《とりいとうげ》から地蔵峠《じぞうとうげ》へかけての稜線《りようせん》を越えて西側へ下れば、角間《かくま》渓谷をへて真田《さなだ》までそう大した距離ではない。今は群馬県|吾妻郡《あがつまぐん》に属しているが、かつてはこの辺りも信濃の国とされていた。  話は一挙に九世紀の昔へとぶ。  第五十六代|清和《せいわ》天皇の皇子である貞保親王は、音楽の達人として知られ、南宮管弦仙の称があった。ところが貞保親王は眼病を患い、名医の術を尽しても一向に験《げん》がなかった。  そこで親王ははるばる信濃の鹿沢に至り、治療につとめられた。やがて効があらわれ、眼の痛みは去ったものの、遂に盲目となり、都に戻ることを諦《あきら》めて小県郡望月郷海野白鳥庄に居を定められた。  盲目の親王に土地の深井某の娘がよく仕え、やがて御子が誕生すると海野小太郎幸恒と名付けられ、親王の没後、一社をたてて白鳥明神ととなえ、諡号《しごう》を滋野天皇とした。以来その子孫は海野をもって称号となし、滋野を姓として信州一国を圧したという……。  一説によれば、眼病の治療に来たのは貞保親王ではなく、その皇子の菊ノ宮だとも言われるが、いずれにせよ信濃鹿沢の湯が古くから都あたりにまで知れ渡った眼病の湯治場であったのは明らかである。  また、滋野姓の起りについては、その遠祖を 天《あめの》 |御 食《みけもちの》 命《みこと》 という説もあるし、そうではなく滋野氏は百済王《くだらおう》の裔《すえ》であるということも言われているが、どちらにしても古族ではある。  滋野一族は海野、禰津《ねづ》、望月などの分家を生んだ。真田は海野氏から更に分れたもので、幸隆、昌幸、幸村などの幸の一字を名に用いるのは海野家の習慣をうけついでいる。会田、塔原、田沢、苅屋原、西牧、光《ひかる》、下屋、大戸、岩下、三島、郷原などという諸姓は、この滋野系の姓とされている。  余談ついでに今少し滋野氏について触れたい。  滋野氏の遠い過去にはどうやら興味深い謎《なぞ》が秘められているようである。  というのも、奇怪なほどこの一党には盲人、呪術《じゆじゆつ》、医術、妖術《ようじゆつ》などとの関係が深い。前述の貞保親王のことなど、滋野氏の発生そのものからして、盲人と結びついている。  京都|山科《やましな》と言えば、この産霊山《むすびのやま》秘録にもたびたび登場するヒの岡の所在地であるが、実はそこには盲人たちの祖神とされている一柱の神が祭られている。諸羽《もろは》明神がそれで、滋野望月氏もまた、同じ諸羽明神を祖神として祭っている。  京都山科には諸羽明神のほか、四宮河原に例の盲人|蝉丸《せみまる》が祭られているが、滋野禰津氏は祖神として四宮権現を祀《まつ》っている。  現在上田市田町となった房山村弁天祭礼の日は、琵琶法師《びわほうし》など盲芸人の集会の場として名高かった。  海野氏支族である下屋氏はこの地域の修験道《しゆげんどう》の支配権を有し、禰津氏は鷹匠《たかじよう》としても有名である。鷹匠の技術は鎮魂などの呪法と混然としている。また禰津氏には巫子《みこ》集団が明治まで存在し、「ののう巫子」と称された。  オシラサマと呼ばれる海野氏の氏神白鳥明神は、同時にマタギ(猟人)と修験の神とされ、滋野氏はのちに諏訪神をも奉じ、甲賀三郎の伝説をひろめた。  となると、余談どうしても甲賀三郎に及ばなければならない。  甲賀三郎は諏訪明神の縁起にまつわる伝説上の人物であって、その名のとおり三人兄弟の末子とされている。その末子が兄たちを打ち負かして成功する、いわゆる末子相続系の説話だ。  彼は兄たちと競争で諸国の怪奇に立ち向い、一人の姫を探《さが》し求める。たずねる姫は地底にあり、ようやく探しあてて地上へ連れ戻したところ、もう一度地底へ入って忘れ物を取って来ることになる。兄たちは彼の成功をそねみ、地底へたらした綱を切ってしまう。彼は怪奇な地底をさまよい、遂に蛇《へび》と化して地上に戻る。……その蛇体《じやたい》を脱した甲賀三郎が、諏訪明神であるという。  この伝説は茨城県日立市、鹿児島県国分市などに同形を残しているが、特に日立市にある諏訪の水穴は、信州諏訪の穴に通じるとされている。  結局甲賀三郎の伝説は、末子成功譚、竜蛇信仰、および地下道説話などの混然としたものであろう。  ところで、かくもえんえんと余談を述べた理由は、これらの現存する事実、信仰、および伝説が、この物語の主人公である佐助に深くかかわっているからである。  彼の父猿飛が、いっとき一族の前から姿を消し、信濃|四阿山《あずまやさん》の山中にかくれすんだのは、決して偶然ではなく、ヒがこの地域と必然的なかかわりを有していたからである。ということは、その子である佐助が真田家と縁を持ったのは、単なるめぐり合わせ以上の宿命ともいうべきものであろう。  なぜならば、ヒは末子相続の古風をついさきごろまで保っていたし、遠隔の地が地底の道でつながっているというのは、産霊山《むすびのやま》のメカニズムが、かすかに一般社会へ洩《も》れ出た痕跡《こんせき》である。また竜蛇信仰は池や湖沼など、一部を地下道説話と重複させた、いわゆる主《ぬし》伝説である。  盲人の天国ともいうべき鹿沢《かざわ》温泉襲撃事件を聞かされたとき、信濃育ちのヒである佐助の脳裏《のうり》には、このような諸要素が必然的に浮びあがっていたのである。     九  佐助はヒの者独特の翔《と》ぶような快足を用い、千曲川《ちくまがわ》ぞいの滋野から地蔵峠《じぞうとうげ》への道を駆《か》け登った。地蔵峠へ出れば鹿沢はすぐそこである。  鹿沢に入った時、そこには人影はなかった。客の盲人たちはいずこかへ連れ去られ、土地の者も怯《おび》えて逃げてしまったらしい。  ……なぜ伊達《だて》家がこのような場所を襲ったのか。  佐助にはそれが不思議でならなかった。河原で救った盲人は、たしかに伊達家の武士だと言い張っていたが、どうにもそれが信じかねる思いであった。  彼は好奇心と盲人たちへの同情から、昔なつかしい道筋を、一気に田代湖のあたりまで駆けおりてみた。仙台《せんだい》方面からやって来た連中であれば、当然その方角へ盲人を連れ去ったと思えるからである。  すると、田代湖畔の森の中に、どうやらかなりの人数がいる様子であるのが判った。  しのび寄ってみると、二十名あまりの武士たちが、ほぼ同数の盲人を並べて坐《すわ》らせ、何やら声高に訊問《じんもん》しているところだった。 「ええい、あく迄も産霊《むすび》の山を知らぬと申すか」  佐助はぎょっとしたようである。篠竹《しのだけ》をふるって盲人を打擲《ちようちやく》している武士の一人が、明らかな奥州|訛《なま》りでそう怒鳴ったからだ。 「知りませぬ。神仏にかけて、産霊の山など耳にしたこともございませぬ」 「したがうぬらはめくらじゃろうが」 「めくらでございます。めくらでございます。何も知らぬめくらでございます」 「ええい、しぶとい……」  また打ちすえている。 「よいか。われらとて盲人をむごい目に会わせとうはない。よく聞けよ。産霊《むすび》の山の秘事が盲人の間につたわっておることは、先刻調べずみの上でおぬしらにたずねておるのじゃぞ。おぬしらはあの鹿沢におったではないか。古来鹿沢がめしいの本地であるのは知れ渡っておる。そこにつどうめしいのおぬしらが、産霊の山について片ことも聞いたことがないとは奇怪ではないか。いや、あり得ぬことではないのか。さあ、言ってしまえ。おぬしらが喋《しやべ》ったとは決して外に洩らさぬぞ。武士に二言はない。さあ、痛い目に会わぬ内に言ってしまえ。オシラサマはどこにおる。いちばん先きに教えた者には大枚の金子をとらせようではないか。ええ、どうじゃ……」  首領らしいのが、たくみに盲人たちを口説いている。 「お頭《かしら》、無駄でござろう。こやつら言う気配もみせませぬ。いっそひとりずつ順に首をはねましょう」  別な男がおどし役をやっている。 「お助け下さい。お助け下さい。本当に何ひとつ知らぬのでございます。どうか命ばかりは……」  盲人たちはてんでに合掌し、額を土にすりつけている。 「首はいつでもはねられる。だが盲人は大切にするものじゃ。儂《わし》はこの者らが言ってくれるまで待つ気になったぞ。気長に待とう。今宵はここに野宿じゃ」  首領はそう言って空を見あげた。事実日はようやく暮れはじめていた。「焚火《たきび》の用意をせい」 「このあたりには蝮《まむし》が多いと聞き申す。日が落ちてから、この盲人どもは大事ありますまいか」 「そこまでは知らぬ」  首領は仲間と顔を見合せ、薄笑いをうかべながら冷たく言った。 「本当に知らぬものは知りませぬ。オシラサマとは白鳥様のことでございましょう」 「それそれ、知っておるではないか」 「白鳥様をオシラサマと申しあげるのは子供でも存じております」 「だがそれは本物のオシラサマのことではあるまいが。オシラサマとは産霊《むすび》の山の大秘事をつかさどる、なま身の人間だというではないか。しかもオシラサマはそのほうら盲人の守護でもあるそうな、鹿沢に来るほどの盲人が、それを知らんことはあるまい」 「そのようなこと、一向に聞きませぬ」 「ええい、どこまでも強情な」  また篠竹の鞭《むち》が鳴った。  佐助は盲人たちをたすけに出るのを中止した。このまま隠形《おんぎよう》を続けて聞いていれば、訊問者の側が逆に少しずつ知識をさらけ出して行きそうな気配であった。  恐らく盲人たちは本当に何も知ってはいないのだろう。彼らが鹿沢へ集まるのは、目あきが伊勢へ参り、京、大坂へ遊山の旅に出るのと大差ない。そのことは、このあたりに育った佐助にはよく判っていた。  だがオシラサマとは何を指しているのだ。しかも奥州伊達家のさむらいが……。  佐助の脳裏に家康を向うにまわして忍び働きをしていた頃の記憶がよみがえった。  たしかに伊達家も豊臣のあとの天下を狙う勢力のひとつであった。一応徳川家の威勢に服してはいるものの、去る慶長《けいちよう》十八年には異国の僧をまじえた一行を巨船で送り出し、いち早く天下を握ったあとの手配りまでしたという噂《うわさ》であった。  とすると、伊達家は今だにその望みを棄《す》て切ってはいないのかも知れない。産霊山は生きとし生けるものの明日への願いを聞き届け、そのように明日を定める役を果すということだ。その芯の山を押えれば、天下のことも思いのままになる道理である。古来ヒはそのために山野を跋渉《ばつしよう》し、芯の山をたずね歩いたのではなかったか。  いま徳川が次の天下を握ったかに見えているが、もし伊達家が芯の山を発見すれば、天下は当然伊達家のものになる。  オシラサマ……それが鍵《かぎ》らしい。  佐助の体にひそんでいたヒの血が一挙にわきたったようであった。天地間のすべての謎《なぞ》を解く産霊山の大秘事。その鍵が生れ育ったこの信州にかくされているらしい。伊達の田舎侍づれに負けてなるものか。そう思った。そして同時に、ヒの宗家の一員である自分が、なぜ正体不明の敵に追いまわされるかも理解した。あの伊賀《いが》忍者たちは、徳川の手先きであろう。多分徳川はその大秘事に対し、一歩先んじているに相違ない。顔も忘れてしまったが、むかし四阿山へよく京の菓子をたずさえて訪れた祖父は、いま徳川の幕営にあって黒衣の宰相と畏怖《いふ》されている天海僧正と同一人であるらしい。その人物が徳川に加わっているなら、産霊《むすび》の秘事に一歩も二歩も先んじているのは当然だろう。  ひょっとすると父の猿飛は祖父に殺《や》られたのかも……佐助はふとそう疑った。     一〇  陽が落ちて夜になった。  すると、それを待っていたようにオシラサマが現れた。オシラサマは霊異の世界に日頃《ひごろ》から慣れ親しんでいるヒの佐助にとってさえ、思わず目を掩《おお》いたくなるようなおぞましい姿であった。  妖気《ようき》がまず佐助の五体に強烈に浸みわたって来た。それは産霊山に入った時の一種|爽快《そうかい》な気分とも違い、ワタリの時の昂揚《こうよう》した気分とも異っていた。  むしろそのふたつとは正反対の、地の底へ引き込まれるような湿った気分であった。どこかかすかに、白雲老人の持つ雰囲気《ふんいき》に似ていたが、強さはその比ではなかった。  いつしか佐助は生れてはじめての懸命さで隠形《おんぎよう》に専念していた。敵とすれば恐るべき相手に違いなかった。しかもその妖気の発生源は十以上であるらしい。もし発見されたら、多分死を覚悟せねばなるまいと思った。  しかし盲人や武士たちは、ヒの体質にありありと感ずるその強烈な妖気に気づく様子がなかった。武士は相変らずおどしつづけ、盲人は命ごいを続けている。  だが隠形している佐助より、武士たちのほうがそれを早く見たらしい。 「ややっ、なんだあれは……」  一人が魂消《たまげ》るような叫びをあげた。  森の闇《やみ》の中を、漂《ただよ》うように白いものが近づいていた。武士たちは一斉に刀を抜いた。  こそりとも音をたてず、それらは近づいて来る。 「妖怪だァ」  刀を手に、武士たちは口ぐちにそう言った。佐助は武士たちを押しつつむように、森の闇を背にポツリ、ポツリとたたずんでいる白い姿を見て、なぜか本能的にそれがオシラサマと呼ばれる存在であることを覚った。なぜなら、彼はそれをたびたび見た記憶があった。ただし夢の中でである。  色は白蛇《はくじや》の白さであった。白子《しらこ》と呼ばれる畸形《きけい》の生物たちは、みなその色に近かった。  形は明らかに人間である。しかし体毛は一本もない。つるりとした頭部から境い目もなく額になり、いきなり薄桃色の唇《くちびる》があった。  眼窩《がんか》もなければ目玉もなく、鼻もなかった。ただ口のみが常人のそれと変らぬ位置についていた。そして異様にとがった耳……。  しかも身に一片の布もつけてはいない。しらじらとした裸身で立っている。 「ギェーッ」  武士たちが刀を落し、胸をかきむしりはじめた。地に倒れ、苦悶《くもん》してころげまわった。 「お、オシラサマでございまするか」  盲人たちは合掌しながら言った。  ——お前たちの敵はみな死んだ。立ち去るがよい。  言葉ではなく心に直接そう響いた。盲人たちはその怪異にさえ気づかぬ様子で、おろおろと立ちあがると、ひとかたまりになって森を出はじめた。闇の中を、盲人は昼と変らぬたどたどしさで歩いて行った。  森の闇に漂う白い影のようなオシラサマたちは、くるり、背を向けると山の上へ向って進みはじめる。佐助は好奇心に駆られ、思わず隠形をといてそのあとを追った。  唇だけののっぺらぼうが十幾つか、一度に佐助のほうに向き直った。佐助は金縛りにされたように、真正面に向き合ったまま突っ立っていた。  ——ヒじゃな。 「そうだ。儂《わし》は以前お前たちを見た。何度も見た。夢の中でだ。子供の頃の悪い夢かと思っていた。なぜ夢の中で会ったのだ。儂とどういうかかわりがある。オシラサマとはなんだ。お前たちのことか」  ——佐助。そうであったの。 「いかにも佐助じゃ」  ——よう戻られた。 「儂らヒとお前たちが何やら仲間らしいのは判る。だがどういう間柄じゃ。なぜ目がない。鼻はどうした。なぜ裸でおる」  ——佐助とあらばヒの宗家であろうのに、その歳になってまだ知らされておらぬのか。 「教えてくれ」  ——われらはヒの女じゃ。 「ヒの女——ヒに女はおらぬ筈《はず》だぞ」  ——居らぬ筈も道理。ヒの女に生れればみなこの姿じゃ。  よく見れば、たしかに女たちであった。胸に乳房があり、股間に陽器を欠いていた。 「それがヒの女の姿か」  ——浅間しかろうがまことのことじゃ。ヒの男が比叡《ひえ》で育てられるよう、ヒの女は生れるとすぐ影《かげ》に送られて育つのじゃ。 「ここが影《かげ》か」  ——近くじゃ。あないしよう。  オシラサマたちはそういうと、漂うように闇の中を進みはじめた。佐助は神秘に酔ったようにそのあとにつづいた。     一一  意外にもそれは四阿山《あずまやさん》がまぢかにそびえる北側の谷であった。その切り立った岩の壁の根方に、明らかに人工のものと思われる小さな穴が口をあけていた。  裸女たちはその穴へ、腰をかがめて吸いこまれていく。  ——ここが影《かげ》じゃ。  岩穴は中に入るとかなり大きくひろがって悠々《ゆうゆう》と立って歩ける程であったが、行けども行けどもはてしのない長さであった。途中には無数の分岐点があり、恐らく今度来ても正確には辿《たど》れまいと思えた。ヒの佐助にしてそうであるから、およそ常人のたずねうる場所ではない。 「影《かげ》は産霊《むすび》の地か」  佐助はそうたずねて見た。だがそうでないことはほとんど決定的だった。全く霊力の存在する気配がなかった。  ——神の道とは女子《おなご》に厳しいもの……。 「なぜだ」  ——この姿を見れば判ろう。われらヒの女は人目に触れることはおろか、陽にさらされることも許されてはおらぬ。 「まことか」  ——日の光を浴びた者は、たち所に全身火ぶくれを生じて死なねばならぬ。 「衣をまとえばよいではないか」  ——その衣がまとえぬのじゃ。草も木も皮も、けものの皮も、かいこの糸も、われらの肌《はだ》には火ぶくれを生じるのみじゃ。  それはアレルギー体質とでも言ったことだろうか。それにしても、一度生を享《う》けたすべてのものの組織に拒絶反応を示す体とは、余りにも業《ごう》が深すぎるようだ。 「それならば食い物はどうする。いやでも肌に触れねばなるまいが」  そこは巨大な空洞になっていた。ほぼ円形に岩をえぐった地底の広場と言ってもよい。そして壁いちめんに、無数の岩棚《いわだな》が走っていて、そのくぼみのひとつひとつに、百近い数の、目も鼻もないつるつるの白い女体がうごめいていた。  ——生あるものは何ひとつ摂《と》らぬ。摂れば死ぬ。われらにとって命は毒であるようじゃ。 「では何を食って生きる。しかもこれほどの数をまかなうには……」  ——砂じゃ。 「砂……」  ——ヒの宗家の男よ、ようく見て覚えるがよい。  そう言うと女たちはこれみよがしに、手に砂をすくって口へそそぎこんだ。  ——佐助も多分神の裔《すえ》と選ばれた身を誇っているであろう。ヒの男はみなそうじゃ。いつかは芯の山をみつけだし、生きとし生けるものの明日の栄えのために、天地の間のたいらぎを祈るつもりでいよう。だが、ヒが人の世にあって唯一の穢《けが》れなき命だなどと思いあがらぬほうがよい。ヒが穢れなき命なら、なんでこのような女を作ろう。不具者じゃ。生れながらの不具者じゃ。ヒの男が千里の道を鳥の翔《と》ぶごとく走るために、ヒの女は目も鼻も黒髪も失い、布で肌をかくすことも許されぬ身に生れついてしまうのじゃ。ヒの男が、神に近いワタリのすべを備えるために、ヒの女は、日ごと夜ごと砂を食《は》んで生きるのじゃ。ヒの男が気高い魂を持つために、ヒの女は太陽から遠ざけられ、地の底に白子の蛇に似た身をうごめかすだけなのじゃ。ヒもまた穢《けが》れであろうが。命あるものはみな穢れじゃ。よこしまな欲のかたまりじゃ。意味を持たぬまぼろしじゃ……  それはしいたげられた女の呪詛《じゆそ》であった。畸形《きけい》の生命の恨みであった。しかし、現実にそこにいる百もの女たちを見ている佐助にとって彼女らは、明日に希望を託す一見正当なものの裏側にある、天にも地にも許されざる汚穢《おわい》であるように思えた。生《あれ》はみな、この汚穢を業《ごう》として背負っているのではあるまいか……佐助はそう思った。そして昼の側に生れた者として、弁解せざるを得ない気持になった。 「儂が芯の山をみつければ、みなのために祈ろう。約束するぞ。そうすれば、やがて目もあこう。美しい布で身も飾れよう。木の実や穀物も味わえよう」  ——ヒの男はみなそういう。果してそれが叶《かな》えられようか。千年この方、男はいつもそう言いつづけた。それでいくさというものがのうなったか。いつ殺し合いが絶えたのじゃ。いったい男は、生《あれ》が栄えるということを深く考えたことがあるのだろうか。生《あれ》が栄えるとはどの生《あれ》のことじゃ。草の命を食《は》む牛馬の生《あれ》か。蛙《かえる》を呑《の》む蛇の生《あれ》か。盲を殺すさむらいの生《あれ》か。 「そのようなことのない日のために……」  ——言うな男。生《あれ》は栄えてはならぬのじゃ。生《あれ》はすべて滅ぶべきじゃ。この東、六里ケ原の南にある、生《あれ》のない岩原の美しさを知るがよい。生《あれ》の姿を留めぬあの岩原こそ、争いのない楽園じゃ。祓《はら》い清まった神の国じゃ。 「ではなぜ産れた。生《あれ》を産んだのも神の業《わざ》であろうが」  ——おろか者め。生《あれ》の本性は生《あれ》なき物と生《あれ》なき物のからみ合いじゃ。清きものと清きものが混り合うて、思わぬ穢れを産んだのじゃ。 「ならば神の縮尻《しくじ》りではないか」  ——そうとも、神はそのつぐないに産霊《むすび》を仕掛けたのじゃ。穢れた欲のかたまりである生《あれ》の願いを、どこまでもどこまでも許すのじゃ。産霊の山はそのためにある。 「それ、生《あれ》の栄えは神も許しておろうが」  ——否じゃ。生《あれ》の願いを叶えつづければ、やがて生《あれ》はおのれの死を願うようになるのじゃ。神はおのれの作り出した穢れ自身に、潔い死を望ませるまで願いを叶えつづけるのじゃ。 「ならばなぜ芯の山をかくす」  佐助はたまりかねて絶叫した。畸形の女がひしめくその穢れに溢《あふ》れた洞窟《どうくつ》に、佐助の絶叫が複雑な谺《こだま》となって響き返った。  上信国境に、その夜から雪が積りはじめ、元和二年は雪にとざされて終ろうとしている。     一二  江戸。  二月に家康は朝廷から東照大権現の号を贈られ、三月十五日には天海、本多正純、土井利勝らが、家康の柩《ひつぎ》を久能山《くのうざん》から運び出し、四月八日に日光山へ納めた。そして一周忌に当る同月十七日、正遷宮の儀式がとり行なわれ、日光東照宮が正式に鎮座することになった。  日光は二荒山《ふたらやま》の地名にあてた文字である。  家康は死を前にして天海らを枕頭《ちんとう》に呼び寄せ、遺骸《いがい》は久能山に納め、葬儀は増上寺《ぞうじようじ》で行ない、三河大樹寺に位牌《いはい》を立て、日光山に堂宇《どうう》を建てわが霊を勧請《かんじよう》すべしと、細かな指示をしたといわれている。……われ関八州の鎮守たらん。家康はそう言い残して死んだ。  久能山に納めよということは、神にまつれということで、自然その神格化が問題になる。それに対し神名四案を練ってその中から東照大権現とさせたのは、天海のしわざである。  また日光における祭祠《さいし》のしかたも、中央に家康、左に日光の鎮守であるマタラ神、右に日吉山王としたのが天海である。  天海が日光山を掌握したのは、慶長《けいちよう》十八年ころのことであるらしい。従って家康が日光に祀《まつ》られることについては、生前からの決定事項であった。  日光における地所選びは、天海、本多正純、そして藤堂高虎が元和《げんな》二年の十月、実際に現地へおもむいて行なっている。  着工はその翌月の十一月からで、中井大和守正清が棟梁《とうりよう》となった。工事期間に五か月を要し、翌《あく》る元和三年三月に落成を見ている。  産霊山秘録を知る者にとって、天海、高虎、正済の三名のヒが東照宮造営に深く関与したことは、さてこそとうなずける事柄であろう。  彼らはみな産霊山《むすびのやま》の芯《しん》の山発見を、生涯《しようがい》の夢としたヒ一族である。二荒山に奇異な神器の反応があり、天海が芯の山である可能性を看《み》て早速信濃|四阿山《あずまやさん》の猿飛を呼寄せ、猿飛がそこで芯の山確認の実験を行なう内、偶々《たまたま》関ケ原合戦の直前、ワタリの動作を誤って自ら人がたの白光となって月面へ至ってしまったのである。  いずれにせよ、二基|乃至《ないし》四基の神籬《ひもろぎ》を組合せてはじめて霊力をあらわす稀有《けう》な産霊山である日光の地を、ヒ一族が芯の山と認めたであろうことは想像に難くない。  家康もまた、それを知って自らを日光山に祀れと遺言したのであろう。もしそうであるなら、われ関八州の鎮守たらんという家康の言葉は芯の山の秘密を守るため、天海らが故意にスケールをちぢめて伝えた遺言であろう。日光山が産霊《むすび》の芯の山であると信じていたなら、当然家康が鎮守となろうとするのは、日本六十余州でなければならないからである。 「まこと日光山は芯の山でござろうな」  藤堂高虎には釈然としないものがあったようである。江戸に吹く春風の中で、彼は天海にそう念を押した。日光へ向う家康の柩が江戸に泊った時のことである。  高虎この時六十二歳、天海はすでに八十歳をこえていた。 「なぜ疑う。かの地で神籬《ひもろぎ》を散々に組んでためしていたではないか」 「どうも判らん……」  高虎は呻《うめ》くように言った。「芯の山、芯の山と、それさえ見出せば明日はすぐにでも思いのままになるように心得ておった」  天海は笑った。 「手妻のように掌から望みのものが湧《わ》いて出るとでも思うたか」 「それ程|頑是《がんぜ》のうもござらぬつもりじゃが!」 「知れたことを言う、六十爺いが」  傍で茶を啜《すす》りながら正清がまぜっ返した。 「なんの。お主《ぬし》こそ儂《わし》より年嵩《としかさ》であろう」  三人のヒは、老境に入って益々仲むつまじくなったようであった。 「芯の山とすれば呆気《あつけ》ないものじゃ」  高虎は沁々《しみじみ》とそういった。  その想いは他の二人も抱いていた。時節の到来と言えばそれまでだが、数千年のヒの歴史が、ひどくむなしいものに思えて仕方がない。 「だがとりあえずいくさは絶えた」  正清が言った。 「芯の山の霊験とは、このようなあらわれ方をするものなのじゃろう」  天海は二人のヒを見やりながら言った。一夜に功がなり、一瞬に富を得るのではない。まず人に努力のかたちをとらせ、それに応じたむくいの形で願いが叶《かな》えられるのだ。ヒ全体の理想は強固な徳川体制の実現で叶えられ、曲りなりにも戦国乱世は終っている。また個人としてのヒを見ても、たとえば正清は豊臣以来の国家的規模における寺社の造営を一手に引きうけ、万民の祈りの容器としての壮麗な建築物をつぎつぎに飽きる程生み出していた。天海自身も今は天台座主《てんだいざす》として、自宗の勢いを極限にまでたかめ、山王一実神道を興して神仏習合の信仰をひろめることに成功している。  天海がそのことを言うと、 「だが儂は血なまぐさい道を歩きつめましたぞ」  と高虎が嘆くとも見える表情で言った。彼の来し方を熟知する他の二人にとって、徳川の天下招来に働いた高虎は、ヒのありようとはおよそかけはなれた存在であることを否定すべくもなかった。 「だが武人として、考えようでは高虎ほど高い地位に昇ったものはおるまい」  天海は慰めるともなくつぶやいた。  それはそうであった。戦場往来の場数とその駆け引きのたくみさ、功名……それらが武士としての値打ちなら、古今に藤堂高虎ほどの武人はそう多くないはずである。武田の軍の味を知り、浅井に仕え豊臣を奉じ、いまは徳川の将としてかくれもない。しかもその間常に戦場の中心を駆けまわり、一戦ごとに名を挙げて来たのだ。よく戦う者が真の武人というならば、高虎は最高級の武人である。 「人の望みを叶える芯の山か……」  高虎はひどく感傷的な顔になっていた。  その夜、高虎は自邸へひそかに服部《はつとり》半蔵を招いていた。彼は伊勢《いせ》・伊賀《いが》二十二万石の領主であり、伊賀者の頭と親しくするのも不自然ではなかった。だが二人の間に交された会話は容易なものではなかった。 「あの者の気配が滋野あたりで絶えたと申すのじゃな」  高虎はひっそりと立ったまま訊ねた。そのうしろ姿には、かつての暗殺者の影が濃くにじみ出ている。 「はい。冬の間中信州一帯に配下の者を置いて見張らせましたが……」 「なる程のう。さもあろう」  高虎は席へ戻って坐《すわ》った。 「お心当りがござりますのか」 「さて、影にでもなったかのう」 「影……」 「いや、もうよい。当分あの者を追う必要もなかろう。並の忍者に斬《き》れる相手でもなし」 「残念ながら、ヒでは相手が悪うございます」  どうやら半蔵は、目の前の高虎自身もそのヒであることを知らぬ様子だった。 「それにしても秀頼公が真田《さなだ》を頼って落ちのびられたという形跡は、今のところ毛ほども見当りませぬ」 「いや、それはまだ判らぬ。雪が消えたら、浅間《あさま》から白根《しらね》の間を、もう一度しらみつぶしに調べあげることじゃ。しかし秀頼公ご存命のこと、くれぐれも外へ洩《も》らすでないぞ」 「命にかけましても……」  半蔵はむきになって答えた。     一三  大坂夏の陣のあと、秀頼が生きているという噂《うわさ》は、どこからともなく世間に流布《るふ》されていた。  あのような狡猾《こうかつ》なやり方で滅ぼされた側に対し、世人はいつもそんなもっともらしい説をなして、同情とやり場のない憤懣《ふんまん》を処理するもののようである。従って今度の秀頼生存説に関しても、情報に明るい上級武士や知識階層の者は、また人々の判官びいきが始ったかと言った程度で、真に受けることはなかった。  だがその噂と全く別に、徳川指導者層の一部では、必死になって秀頼の行方を探索《たんさく》していた。勿論《もちろん》公けにすることはできる筈もなく、厳重に秘匿《ひとく》してではあったが……。  藤堂高虎が正式に伊賀《いが》、甲賀《こうが》の者を支配したという記録は全く残っていない。しかし、徳川家が大坂夏の陣直後、秀頼探索の責任者を立てるとすれば、豊家ゆかりの彼などが最適任者であったろう。加藤・福島らと同じ豊臣系の出でありながら、いち早く徳川擁立の旗色を明らかにし、旧主側から見れば悪鬼のような凄《すさ》まじさでその滅亡に働いた高虎こそ、かえって徳川系諸大名よりも、秀頼生存に対する不安、ないしは恐怖が強いはずだと見られるのである。その上、徳川体制下で秀頼探索の任につくのは伊賀・甲賀グループで、伊勢《いせ》、伊賀《いが》を領する高虎と服部半蔵らは深い地縁につながっている。更に都合のよいことには、家康の死ぬ数年前、彼は家康の命をうけて肥後《ひご》熊本の加藤家の内政を監督する立場にあった。その頃例の暗殺という噂が乱れとんだ加藤清正の死があったからである。  加藤家、福島家、島津家らなどは、秀頼|隠匿《いんとく》の重要な容疑者で、特に九州の加藤、島津は位置的にも最も徳川側の気になる相手であった。  すなわち藤堂高虎は、捜査本部の本部長であった。そして今、その本部が捜査の網をしぼりあげているのが、ヒの佐助であった。  佐助は猿飛行方不明のあと、ヒにあっても一個の放れ駒的存在で、やがては里者として俗社会に同化するはずの人物と見られていた。しかし、意外にもそれが猿飛佐助の名で徳川の敵として活躍した。恐らく隠微な裏面での戦いで、家康らは何度も佐助に苦汁《くじゆう》をなめさせられていたのであろう。秀頼生存を確認した家康ら徳川首脳部は、加藤、福島、島津といった容疑者と共に、いやでも真田の名を思い泛《うか》べた。戦後猿飛佐助の姿が越前にあることを知ったとき、彼らが一途にそれと秀頼を結びつけたとしても少しもおかしくはない。ことに家康は、関ケ原前後の経緯から、二荒山において東軍の勝利を芯の山に祈願した猿飛の名を知っていたのである。  ヒの一部が敵にまわることを最《もつと》も恐怖したのは家康である。芯の山とされる二荒山にその遺体を安置させ、東照宮をひらかせて死後も幕府体制の安泰をはかろうとしたほど、産霊《むすび》の山の霊力にたよった家康であってみれば、たとえ一人のヒであっても、それが敵となれば天下をくつがえすことがあるのを知っていたのである。  大坂城の落城は元和《げんな》元年四月八日のことであるが、秀頼生存を知った家康は直《ただ》ちにヒへの対策を講じている。  ヒの秘密を継承している朝廷と、真相は知らぬとは言え諸国産霊の地を占拠している古寺|名刹《めいさつ》、神社のたぐいを、自己の完全な掌握下に置こうとしたのだ。  同年七月、徳川幕府は「禁中並公家諸法度」を発し、朝廷側の行動を強く規制した。  天子諸芸能之事、第一御学問也……十七ヵ条からなるその法令の第一条で、天皇のなすべきことをそう定めている。けだしこれは日本史はじまって以来、天皇の行動を規制した最初の法文であろう。  同様に厳しい規制が宗教界にも行なわれ、「諸宗本山本寺諸法度」が発せられた。大坂城落城後二、三か月の間に、あわただしくこれらの法度《はつと》が出されたことは、秀頼とヒを結びつけた家康の心中の怯《おび》えを物語って余りある。  家康が掴《つか》んだ産霊山の大秘事について、豊臣側が全く関知しなかったかと言えばそうでもない。関ケ原から六年余りのち、豊臣家が産霊山に関して動きを見せた記録が残っている。  醍醐《だいご》三宝院の門跡《もんぜき》、義演大僧正《ぎえんだいそうじよう》が、慶長《けいちよう》十一年七月二十日、突然大坂城に召喚されたことがそれである。  勿論大秘事であるから文書にもその真相が正確に記されるはずもないが、表面に出された記録がはからずもその一端を示している。  義演大僧正は暗夜の怪光について、その処置を諮問《しもん》されたのである。同じ記録は十三年六月五日にもあり、その時の理由も怪光が飛ぶことについてであった。  世間はそれを人魂が飛んだので鎮魂の祈祷をさせたのだということで納得しているが、秀頼といえども武士の子である。  仮りにそのような人魂への怯えから義演大僧正を招くことになったのならば、少くとも世間の眼をそらせるこころ配りをする羞恥心はあったであろう。  明らかにこれはヒの白銀の矢に関する問題であり、三宝院門跡が呼ばれていることは豊臣家が産霊山の秘密のごく深い部分にまで触手を伸ばしていたと推察できる。この時代ヒの活動の実際はすでにはるか東方へ移っていたが山科《やましな》ヒの岡は相変らず彼らの基地であり、同じ洛南《らくなん》にある醍醐三宝院門跡の義演大僧正は、山科|言継《ときつぐ》卿がヒの管理責任者であることや、永禄《えいろく》十一年夏、織田信長を支援すべくヒに発された勅忍宣下にあたって、言継卿が正倉院《しようそういん》その他の宝物を密売して資金調達を行なったことなど、ヒに関する秘事を知っている数少い人物の一人であった。  ともあれ、徳川政権が確立したこの頃、ヒがヒを追うという事態が発生していたのである。     一四  佐助は全くの無実で追われている。彼は秀頼の顔すら見たことがないのである。  彼は今、産霊山の謎《なぞ》にとりつかれ、オシラサマたちの間に伝わった口碑をたどってヒそのものの出発点へ立ち戻ってみようとしていた。神器のあり方を研究した最初のヒである猿飛の子は、はからずも父の遺業をついで、更にその根本を究めようとしているのであった。  ヒは産霊山を求めて東へ移動したとされている。とすれば、ヒの故土は西方である。事実オシラサマの住む影は、九州に信濃《しなの》のそれより更に古いものがあるということであった。  佐助はその元の影の知識を得ると、雪のとけるのを待ちかねたように、翌る早春信濃の影を出た。ひと冬を怪奇な女人群にかこまれて隠れ過した彼は脱出の時もオシラサマに地底の道案内をしてもらった。  複雑な地底の迷路のはてに井戸があった。 「この井戸をくぐると諏訪《すわ》の湖《うみ》です」  のっぺらぼうの白い裸女たちは、彼にそう教えると洞穴《ほらあな》の奥へ引き返して行った。  佐助がためらわずに冷たい水に沈むと、井戸は横穴となっていて、すぐ広々とした場所へ出た。ゆっくりと浮きあがると、何か月ぶりかの空が見えた。空は鮮やかな春の色をしていた。  九州へ向う佐助が、ヒであるのに全行程を徒歩で通したのは、仕方のないことである。  せめて信濃からヒの岡あたりまでくらい、ワタって行けばよかったが、年が明けた元和三年の情勢では、各地の産霊山に対する幕府の警戒が厳重をきわめ、流石《さすが》の佐助もあきらめざるを得なかった。  京から西を佐助は知らない。ワタリは実際にその到着地点へ到って、距離、方角、地形などの正確な認識を得て置かねばならない。未知の世界の場所へのワタリを試みれば、かつての飛稚《とびわか》のように空《から》ワタリとなって異次元空間へ堕《お》ちてしまうのだ。  佐助は旅を続けた途中各地の産霊山へ立寄り、その霊域を脳裏に刻みながら進むのであるから、疾風《はやて》のごときヒの快足をもってしても、旅は遅々として進まなかった。  思うに、山々をへめぐる修験道は勿論のこと、仏教において諸国の霊所をへめぐる遍路の旅も、こうしたヒの必修事項に関連しているのであろう。自分に対する厳重な警戒網があることを覚った佐助は変装のため巡礼姿に身をやつしたが、はからずもそれは産霊山の秘事の一部が形を変えて世に洩《も》れ出た経緯を、一身に具現してみせることになった。  その佐助が九州南部に姿を見せたとき、すでに蝉《せみ》が鳴いていた。  信濃のオシラサマは、アイラという異国じみた地名を教えてくれた。そのアイラに、諏訪神社があるということであった。ワタリもできず陽光のもとへも出られないオシラサマたちは、そのような僻遠《へきえん》の地へ旅したこともなく、ただかすかにつたわる口碑を授けてくれたにすぎない、アイラの諏訪神社以上のことは、信濃のオシラサマにも判らなかった。  姶良《アイラ》は錦江湾に面していた。今日の鹿児島県姶良郡がそれで、彼のたずねた諏訪神社は、今も国分市に残っている。そこから東南の一帯はシラス台地で、諏訪原、諏訪方など、諏訪の地名の多い地方である。  そのあたりの宮や寺をたずね歩くうち、佐助はひとつの手がかりを掴《つか》んだ。はるか北西の山中に、烏帽子岳《えぼしだけ》という山があることを知ったからである。信濃の烏帽子岳との一致が、更にその近くの鹿沢《かざわ》という盲人の聖域にまで重なるかどうか……佐助は一気に北西へはしった。  だが烏帽子岳は偶然の一致であったようだ。烏帽子に見たてられる地形は珍らしくなく、烏帽子岳は現に阿蘇《あそ》にもある。  ところが、山地の人々と接触する内、佐助は偶然の一致ではすまし得ない情報を手に入れた。霧島山《きりしまやま》の近くに、白鳥山《しらとりやま》があったのである。しかもその一帯は、高千穂《たかちほ》の峰を持つ神話の国である。佐助は雀躍《こおどり》して東の霧島山へ向った。  果して、白鳥山はいで湯を持っていた。今日白鳥温泉として知られるものである。そして佐助はそのそばに、名もない小さな社《やしろ》があるのを発見した。たとえ名がなくても、白鳥山に祀《まつ》る社である以上、それが信濃の白鳥神社と同じ意味を持つことは間違いないと思った。  彼は人跡まれな山中の湯に浸って長旅の疲れをいやし、ひたすらオシラサマの出現を待った。  が、のっぺらぼうの畸形《きけい》女たちに会う前に、彼は意外な人物とそこで顔を会わせてしまった。  黒旗天兵衛である。  天兵衛は南の韓国岳《からくにだけ》の方から、七、八人の武士を引きつれてやって来た。佐助は咄嵯《とつさ》に隠形《おんぎよう》して彼らを観察した。  みな忍者であった。 「よいか、今度こそ逃がすでないぞ」 熟達した隠語であった。隠語とは唇を動かさずに喋《しやべ》る伊賀独特の忍びの術である。  その隠語を発したのが天兵衛であったことを知った刹那《せつな》、佐助は敵の強さを思った。  越前《えちぜん》以来、彼は敵の完全な手の中にいたのだ。思うように操られ、隠れたつもりが逐一見すかされていたのだ。相変らずのうのうとした天兵衛の貌《かお》に、佐助は言い知れぬ怖《おそ》れと憎しみを味わった。     一五  逆に追手があとをつけられている。  黒旗天兵衛とその配下の忍者たちは、白鳥山のあちこちを探《さが》しまわり、佐助はつかず、離れず彼らのあとを追う。  天兵衛たちは佐助がこのあたりにいることを知り尽しているらしく、きわめて細心にふるまっていた。忍びの態勢をかたときも解こうとはしないのだ。佐助がヒでなかったら、彼らの尾行はとうてい不可能であったに違いない。  と、その日の夕暮れ、天兵衛たちは急に緊張を強めて地に伏せた。佐助はその気配で、彼らが何を発見したのか知ろうとした。  谷の向うの岩壁に夕陽がさしていた。そしてその岩壁の上に、ふたつの人影があった。ひとつは若い男、ひとつは女の姿であった。 「猿飛佐助でござろうな」  忍者の一人が天兵衛にそう言った。 「いや、佐助ではない」  天兵衛はそう答え、この男としてはかつて見せたことのないような陰気な含み笑いをした。 「見たぞ、見たぞ……」 「何者でござる」  忍者たちは不思議そうに訊ねた。 「もう佐助ごとき小者に用はなくなった。あの二人を斬《き》れば江戸へ帰れる」 「やっ……ではあれが関白秀頼公」  盗み聞いていた佐助は愕然《がくぜん》とした。やっと事情が呑《の》みこめたのである。なぜ追われたか、なぜ逃げるよう仕向けられたか……はめ絵の大部分がぴたりとあるべき所へ納ったのである。  あらぬ疑いをかけられたものである。しかし、彼らが佐助のあとを手繰って近づこうとしていた真の目標を発見したからと言って、このまま逃げ出す気にはなれなかった。逃げれば追及はやむだろう。しかしそれでは大きな謎《なぞ》が残ってしまう。オシラサマのいる影の地と、秀頼のかくれ先きがどうして一致しているのだ。偶然にしては念が入りすぎている。 「よいか。必ず仕止めよ」  天兵衛が言い、忍者たちは殺気だって谷の向うへ走った。  あとに残って佐助は夕陽を浴びている二人を眺《なが》めた。背の高い若者が秀頼であるとすれば、女は淀君《よどぎみ》であろう。生きのびて、この霧島の山中でどうしようというのか。世はすでに徳川でかたまっている。天下のためには、あのふたつの命はあってはいけない命なのだろう。一徳川家のみのためでなく、天下万民のこれからのくらしの上で、いくさの火種そのものと言える秀頼と淀君は、死んでしかるべき命なのだ。……ただの母子にすぎない。倖《しあわ》せを追い求め、平和な暮しを願う権利は、あのふたつの命にも授けられている。しかし死ぬべきなのだ。いわば二人はこれからの世の穢《けが》れである。祓《はら》われねばならず、潔《きよ》められねばならぬ命である。佐助はふと、あのおぞましい姿に生れついた罪の子たちを思い泛《うか》べた。彼女たちは、生《あれ》こそ天地の穢れであり、消滅すべきだと主張していた。その当否はとにかく、生き長らえるべきでない命が存在することはたしかなように思えた。  いったい誰《だれ》が……佐助はそう思い、急に行動を起した。彼らが忍剣にたおれる前に、そのことを知らねばならなかった。何者が火につつまれた大坂城からあの二人を救い出し、このような場所へ連れかくしたか。それがオシラサマにかかわることなのかどうか。是非とも知らねばならなかった。  谷は意外に深く、けわしかった。佐助が向う側についた時、陽はすでに沈んでしまっていた。  忍者たちはその闇《やみ》に紛れ、手裏剣をとばした。攻撃は合理的であり、それだけに非情であった。糠袋《ぬかぶくろ》を叩きつけるような音が重なり淀君が絶叫した。その音は、飛行する凶器が肉に突き立つ音であった。 「下郎出会え」  数か所に金属片を突きたてさせたまま、流石《さすが》気丈に秀頼が凜《りん》とした声音で言った。  のっそりと黒旗天兵衛が姿をあらわした。 「みしるし頂戴仕る」 「名乗れ。首は授けよう」  すでに淀君はこと切れ、秀頼も深傷《ふかで》によろめいていた。 「伊賀上野の城主藤堂高虎が家中、黒旗天兵衛」 「なんと……」  秀頼は驚愕《きようがく》した様子であった。「藤堂家とか」 「いかにも」  秀頼は嘆息して地に腰をおろした。 「介錯《かいしやく》せよ」  彼は自分の家臣に命ずるように言って脇差《わきざし》を抜いた。 「仕《つかまつ》ります」  天兵衛はその態度に気《け》おされて従順になっていた。「ご辞世は」 「ない。だが主家に立ち戻って汝《うぬ》の主《あるじ》に伝えよ。死ぬべき命を母子ともども二年《ふたとせ》の余も長らえたるは、ただただ高虎の心根に免じてのことであった。馳走《ちそう》であった……そう申せ」  ずぶりと刀が腹に立った。 「なんと仰せられる。わが主人が関白さまを」  天兵衛はうろたえ切っていた。 「致せ」  秀頼は呻《うめ》くように催促した。天兵衛はおろおろと刀をふりおろし、仕損じて三度目にやっと秀頼の首を落した。 「天兵衛どの、これはいかなる仕儀にござる」  忍者たちが天兵衛の前に並んでつめ寄っていた。 「知らぬ、知らぬわい」 「関白のお言葉では、藤堂様がこの地へおかくし申したような。これは一大事でござるぞ。きっと江戸へ申し伝えねば……」 「待て。間違いじゃ。何かの間違いじゃ」  佐助は闇の中で大声で笑った。 「どうした天兵衛。おぬしも高虎めにまんまと操られた一人であろうが」  忍者たちは身を低めてあたりをうかがった。 「佐助か……」 「いかにも佐助だ。秀頼の今の言葉、儂《わし》には読めたぞ。考えてもみよ。高虎はもと浅井の家臣だ。淀君はいったい誰の子だったのか」 「あ……」  天兵衛は棒のように突っ立っている。 「お市の方を自害させ、その娘お茶々を手ごめ同様に側室としたのは秀吉ではないか。高虎は秀吉を憎んだであろう。しかし淀君はあくまで主家の娘。豊臣は倒してもその母子の命は長らえさせるつもりだったのだ。儂をつけてここまで来てしまった。ここへ来るのを高虎に知らせたか。知らせはすまい。知らせれば果して高虎は許したかな。……どうだ天兵衛。伊賀者は江戸に帰って秀忠にこのことを告げるぞ。するとどうなる。天兵衛の見事な奉公ひとつで伊賀上野城のあるじが変るのだ」 「なぜじゃ。なぜおぬしはここへ来た」  天兵衛は闇に向って吠《ほ》えた。 「秀頼も高虎も知ったことか。秀頼が生きていることすら、つい今しがた知ったばかりだ。儂を追わせていたのが高虎であることもな。思えば儂もただの操り人形じゃったぞ。自分で隠して置きながら真田《さなだ》のしわざと思いこませ、ヒの者の儂に罪を着せて追いまわしたのた」  そこまで言って佐助は、ふと高虎の容易ならざる読みの深さに気がついた。恐らく彼はヒを知っていたのだろう。ヒならば、伊賀、甲賀の忍者ごときに決してとらわれはしないことを……。と、その時、闇の中にオシラサマの白い姿があらわれ出た。     一六  天兵衛も忍者たちも、外傷のない屍《しかばね》を断崖《だんがい》の上にさらしていた。田代湖畔《たしろこはん》の夜と同じように、オシラサマの念力に呪殺《じゆさつ》されたのである。  ——信濃《しなの》の影から参ったのか。  オシラサマたちは、この地の影へ佐助をいざないながら訊ねた。 「申したとおり、かの地の女どもからここのことを教えられてたずねて来たのだ」  ——物好きな。 「ただわけもなく知りたかった」  ——それなら藤堂とか申す者に聞けばよかろうに。 「高虎に……」  ——おや、それも知らぬと見える。おかしな男じゃな。 「高虎もヒか」  佐助は肌《はだ》に粟《あわ》を生じさせていた。  ——あの男はたしかにヒじゃった。だからこそ、秀頼という者をあずかってやった。  オシラサマたちは、信濃の影の入口と同じような岩壁の穴へ入って行く。 「秀頼たちもこの中で……」  ——まさか。ヒでない者にこの姿をみせるわけには行かぬ。あの者たちはこの真上の小屋に住んでおった。  佐助は四阿山《あずまやさん》の生家を思い出した。あの家も影の真上に位置していた。オシラサマは少年の佐助の夢に何度もあらわれたが、あれは実際に彼女らがたずねて来たのだろう。 「ヒはこのあたりから東へ向ったのか」  ——そう伝えられている。じゃがここも東じゃ。 「ここも東とはどういう意味だ」  ——どこまで行っても東は尽きぬ。ヒはもっと西からここへやって来た。 「もっと西……海ばかりではないか」  ——海の向うにも国はある。それも大きな果てのない広さじゃ。 「異国にもヒがいるのか」  ——ヒもあれば産霊《むすび》の山もある。 「なんと……」  初耳であった。  ——この世のはじめに神々があった。今の世の人と似ていたそうな。 「神と人は同じかたちか」  ——神を見た者などおらぬ。じゃがここに伝わるはなしでは、神はむしろ人よりもわれらに似ていたということじゃぞ。  オシラサマは誇らしげであった。 「ヒの女にか」  佐助はこの畸形《きけい》人にかと言いたいようだ。  ——みな念力を持っていた。いまのヒの念力の幾層倍もの念力じゃ。産霊の山は神々の便利のために作られた道じゃ。道であると共に、その芯の山へ祈れば、たちどころに願うものがあらわれて、何不自由なく暮せたという。 「その名残りが今の世にあるというわけか」  ——そのとおりじゃ。神々はもうこの世におらぬ。死に絶えたか、別の世へ移ったか……。 「神も死ぬのか」  ——判らぬ。だがこの世にはすでに一人の神もおらぬ。 「別の世がまことにあろうか」  ——それも判らぬ。じゃが、芯の山をはじめとし、産霊《むすび》の山のからくりはみなこの世の外にくくりつけられているということじゃ。 「この世の外にくくりつけるとはどういうようにだ」  ——判らぬ。ただそう伝えられている。  佐助の頭にその瞬間、天啓《てんけい》のごとくひらめいた考えがあった。  善光寺の御鏡の前にしかけられた虎《とら》ばさみの罠《わな》に気づいた時、彼は永平寺《えいへいじ》の神籬《ひもろぎ》へ一瞬の内に念じ戻った。あの時の奇妙な体験がよみがえってヒントとなった。  佐助はその時乳白色に輝くつるつるのドームを幻覚した。その中で千年もの時を過したように思ったのである。ひょっとして、あそこがこの世の外にある産霊山のからくりの場所ではないだろうか。もしそうであるとすれば、ふたつ以上の神籬の間を、どっちつかずに念じたままその状態を長く続けてみることだ。そうすればあの乳白色のドームの中へ入りこみ、もっとよく中の様子をさぐることができるかも知れない。……佐助は一途にそう思い込んだようであった。     一七  この章もようやく終りに近づいた。ここで読者の注意を次の歴史上の事実に向ける必要がある。  これより五年後の元和八年、天海は江戸城の東北、上野 忍《しのぶが》 岡《おか》の地を請うて幕府から与えられた。そこは最初高虎が、所領の伊賀上野の地形に似ているからといって邸《やしき》をたて、上野と名づけたと伝えられている。  天海はそこに比叡山|延暦寺《えんりやくじ》のダミーを作った。位置的に江戸城の鬼門に当り、京の鬼門である叡山と同じ意味をもっているほか、不忍池《しのばずのいけ》が琵琶湖《びわこ》に見たてられたのである。  それが東叡山|寛永寺《かんえいじ》である。  天海は日光東照宮の江戸支宮であるように見せかける工作を念入りに施しているが、果して真意はどうであったろうか。  その年、江戸城近くの林の中にひとつの奇怪な死骸《しがい》が発見されているという。その死体は、なんと五臓六腑《ごぞうろつぷ》が裏返しに体外へ露出していたらしい。余りの怪事に検死の役人が苦労して死体を生前の形に復元したところ、その役人は死者を冒涜《ぼうとく》したとして断罪され、関係者もことごとく死を賜ったとある。  その復元された顔が誰《だれ》のものであったか、遂に記録はない。しかし天海が手厚く葬い、その直後寛永寺のことが生じている。  父猿飛同様、佐助が芯の山に到ろうとして実験を進めたとすればどうであろうか。裏返しの死体が仮りに佐助の失敗の結果であったとすると、天海が示したあわただしい寛永寺創建の意味は、ひょっとして彼が江戸こそ芯の山であると考えるようになったからではあるまいか。  それかあらぬか、徳川幕府は三百年の泰平をこの日本の歴史に作り出している。  天海の死は寛永《かんえい》二十年(一六四三)。実にその齢《よわい》百八歳と言われ、今に至るまで世に明智光秀すなわち天海大僧正とする説を根強く残させている。ともあれ謎《なぞ》多き人物ではある。  本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品が取り扱っている内容などを考慮しそのままとしました。作品自体には差別などを助長する意図がないことをご理解いただきますようお願い申し上げます。 (角川書店編集部) 角川文庫『産霊山秘録』昭和56年1月30日改版初版発行